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中山陵日语导游词

中山陵日语导游词江苏景点导游词2010-11-26 15:13:58 阅读46 评论0 字号:大中小订阅前にある城门は、中山门といいます。

もともとは朝阳门と呼ばれていましたが、孙中山(孙文)を记念するため中山门と名前を改めたとのことです。

この城壁は、600年前の明王朝の初めに筑かれたものです。

明の初代皇帝、朱元章は南京に都を置いた後、自分の支配を固めるために20万人もの人々を使って、18年间かけてこの城壁を筑き上げました。

周囲の长さは33.6キロメートルです。

现在の城壁は、半分が当时のまま保存されています。

南京城は、いま世界に残されている古いお城の中で最大のものです。

この辺りは东郊风地区といいます。

南京の东の郊外の名所地です。

この辺りにはいろいろな木がたくさん植えられていますが、特にプラタナスの并木はとてもきれいです。

夏の暑い日にはこの辺りを散策するととても凉しいです。

もうすぐ中山陵に到着しますが、中山陵について少しご绍介させていただきます。

中山陵は、わが国の伟大な革命先駆者、孙中山(孙文)先生のご陵墓です。

孙中山先生のことについてはみなさんもよくご存知かもしれませんが、简単にご绍介させていただきます。

孙中山先生の名は「文」、字を「逸仙」といいます。

日本では「孙文」という名前のほうがよく知られていると思います。

孙文先生は1866年11月12日、広东省香山県の农家に生まれ、(现在この県は孙中山先生の名にちなんで中山県と改名されています。

)1925年3月12日、病のためこの世を去っています。

享年59歳でした。

そして孙文先生の生前の愿いに従って、1929年6月1日にここ南京に葬られました。

孙文先生は40年もの长い时间を中华民族の振兴のために尽くされました。

ところで先生の出身地も、亡くなった场所も南京ではないのにどうして南京に葬られたと思いますか?1911年、辛亥革命が成功した後、孙文先生は南京に中华民国临时政府をつくって、临时大统领に就任されました。

とても多忙でしたが、时々休みを取ってこの紫金山へ猟に出かけていました。

先生はこの辺りの自然や景色の素晴らしさをとても気に入ったようで、付き添いの人に冗谈半分で「自分が死んだら、ぜひこの辺りに墓を造ってほしい」と言ったそうです。

冗谈ではありますが、先生の愿いでもあると察した国民党政府は、先生が亡くなった後、1926年から1929年まで3年间かけて陵墓を造りました。

この工事の设计者は、中国の名高い建筑士?吕彦直(ろえんちょく)さんです。

敷地面积は8万平方メートルあります。

陵墓は警钟のような形をしていますが、これは民衆に対し目を覚まし、奋い立つよう呼びかける钟を表现しており、孙文先生が一生涯をかけて奋闘された実绩を象徴しているかのようです。

この陵墓は、広场、鸟居、参道、正门、碑亭、祭殿、墓室からなっています。

一番高い所は祭坛で、海抜は158メートル、标高は73.3メートルあります。

この入り口から祭坛までの石段はかなり长いですが、石段は平らですし、ひとつの石段の高さも低いですので登りやすいかと思います。

みなさんの南侧には、孙文先生の铜像が立っています。

これは孙文先生と仲の良い友达であった梅屋庄吉という日本人が日本で鋳造して运んできたもので、先生が演説を行うときの姿をもとに作りました。

鸟居は石造りで、その上に「博爱」という文字がありますが、これは封建専制主义に反対するという意味で、孙文先生の民主主义思想を表しています。

鸟居の後ろの参道は、长さが480メートル、幅70メートルです。

両侧にはヒマラヤ松が植えられています。

これは孙文先生の革命精神と高尚な品性がこの常緑树のようにいつまでも続くということ表しています。

香炉の上には三つの文字が鋳造してあります。

智恵の「智」、仁爱の「仁」、勇敢の「勇」の三つです。

これは孙文先生の优れた品行と才能を称えたものです。

向こうは正门です。

正门の真上に「天下为公(天下は公のため)」という四文字が刻まれていますが、これは孙文先生の直笔です。

前は碑亭です。

石碑の高さは9メートルです。

上には孙文先生が葬られた年月日が刻まれています。

前の建物は祭殿です。

门の上には「民族、民生、民権」という有名な「三民主义」の文字が书かれています。

「三民主义」とは、孙文先生が提唱された「民族の独立、平等を求める、民主自由を実现する、人民の生活を改善する」という纲领で、孙文先生が革命を指导する上で中核的な思想となったものです。

この祭殿は全部石で作られています。

先生の座像は大理石で作られ、高さは5メートルあります。

フランスのある有名な雕刻家がパリで雕刻して运んできたものです。

座像の土台の周りには孙文先生の革命活动を物语った浮き雕りがなされています。

真正面の図は、孙文先生が赤ちゃんの诊察をしているものです。

これは孙文先生が香港の医科大学を卒业してから医者になったときの様子を描いています。

东のほうに二つの図があります。

左は孙文先生が革命を宣伝する志を立て、出国する前に友达と别れるときの情景を描いています。

右は孙文先生が日本で革命同士と共に「同盟会」の纲领を検讨している様子を描いています。

続いてこの図は1911年、辛亥革命が成功した後、1912年1月1日南京で中华民国临时政府がつくられ、孙文先生が临时大统领に选ばれ、国会から先生に大统领の官印を授与する様子です。

こちらにも二つの図があります。

左の図は、孙文先生が人民を呼び起こすため、演説を行っている様子です。

右の図も孙文先生が演説をしている様子を描いています。

これは中华民国临时政府がつくられてまもなく、袁世凯がその革命の成果を夺って大统领になり、さらに皇帝になろうと企てたことがありましたが、孙文先生がこの阴谋に反対する演説を行った时の様子を描いています。

袁世凯の皇帝になるという梦は、孙文先生をはじめとする全国人民の反対のもと、わずか83日间で终わりました。

この祭坛の両侧の壁に、孙文先生が书かれた建国纲领が刻まれています。

祭坛の後ろは墓室です。

この孙文先生の卧像は大理石で雕刻されたものです。

その下は地下室で、先生の遗体が安置されています中山陵(最新版日语导游词中)来源:陈传亚的日志工事は1926年から1933年まで終わりです。

建築家は山東省の人,呂彦直です。

彼の設計の中山陵の風格は独特で、中国の古代と洋風建築の精華に解け合って、警鐘の形で、寓意は“警世の鐘が鳴り響いて、民衆を喚起する”です。

すべて鉄筋コンクリート構造、藍、白の色調を採用しました。

これは国民党の“党徽”の色です。

残念なことに中山陵を作る時献身的に力を尽くして、過労のため病気にかかり、工事が終わる頃に亡くなりました。

年は僅か36歳でした。

前方の建物は正門です。

中央の横額に“天下為公”が彫り刻んであります。

それは孫先生の筆跡です。

意味は:【国家の政権はどの一家の天下でありません、天下人の天下で、民衆の天下です】。

“天下為公”は彼の提唱した三民主義の中で民権に対して最も良い注釈です。

彼が逝去された後、人々は次のように称賛しました:“先生の革命の数十年、個人の財産は無く、私的な便宜を図ることはなく、個人的な恨みもなくて、無私な人。

先生のような政治家は古今東西、先生お一人でしょう。

”正門の真ん中の扉が閉められていることになります。

毎年2回開きます。

先生の誕生日の11月12日と逝去の3月12日。

正門の両側にそれぞれ1対の石造の獅子があり、これは1935年宋哲元将軍が北平で買ったもので、中山文化教育館に贈呈し、また教育館から中山陵に送られました。

これは北方のライオンで、雄壮です。

前の建物は碑亭で高さ8.1メートルです。

墓石には“中国国民党総理孫先生はここに葬られている中華民国 18年6月1日”と刻まれています。

これはもとの国民党の元老、行政院の院長である譚延がいの内筆で。

中華民国の18年6月1日は西暦の1929年6月1日で、先生はここに葬られた日です。

孫さんの葬儀のすべては国民党の内部でやって、行われたのは党葬で、先生の国民の党内での職務は“総理”です、だから私達が見るのは、“総理が葬られている”となります。

“総理”のこの呼び方も国民の党内で孫中山先生の1人に限って、今、国民党内の最高の職務は主席です。

上は国民党の党徽で本来は陽刻です、文革の時に破壊されました。

1981年辛亥革命70周年を記念するために、中山陵は一度、全面的な補修を行いました。

その時、この党徽は陰刻に変えました。

皆さんよく見てください。

碑の上が雲の紋様が刻まれ台座に山が刻まれてあります。

これは先生の革命の精神が堂々としていることを象徴します。

先生の思想と功績は文字でまとめることができないので、そこで墓碑の裏に何も書いてありません。

碑亭を過ぎて、これから階段になります。

全部で392段です。

この階段全ては蘇州の金山石で使われ、中山陵の建物の中の重要な構成部分です。

ここは祭堂と墓室に通ずる道です。

中山陵は山に添って建てられたので、もし、こんなに多い石階段を下から上へ変化せずに頂上まで敷けば非常に単調なものに見えてしまうでしょう。

中山陵の設計者と建築者は巧みに、392級の石段を10段に分けました。

もとは孤立している小建物を大きく建築群の全体に連ねて、各石段の間にプラットフォームがあり、緩衝として、プラットフォームの上でまた陳列記念などの建築物を作ってあります。

このようにして、392級の石階段は偉大で壮観であるようになり、また変化に富んだ韻律は孫中山先生の陵墓の気勢を作りあげました。

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