「娯楽」「日本人は働き蜂」とよく言われます。
確かに、日本人は勤勉でょく働き、中には「仕事が趣味」という人もいます。
しかし、誰でも仕事ばかりしているわけではありません。
それでは、仕事から解放された時、日本人はどんなことに楽しみを見出すのでしょうか。
まずゴルフです。
サラリーマンにとっては、たんに趣味というだけでなく「接待ゴルフ」といって、日曜日に青空の下でゴルフをするのは、趣味と仕事の両方ができて「一挙両得」のようです。
「時間と暇があれば旅行したい」、大部分の日本人がこう考えているのではないでしょうか。
国内ばかりか円高の影響から海外旅行熱も高まるばかりで、休日の駅や空港は大変混雑します。
スポーツ観戦は野球、サッカー、相撲などに人気があります。
テレビの番組表を見ると、いかに日本人がこれらが好きかがわかります。
広いグランドで繰り広げられるゲームや狭い土俵の上の勝負に熱狂し、ひと時を過ごすのは、たとえテレビの観戦にしても楽しいものです。
また、お年寄りに人気があるのはゲートボールです。
孤独になりがちなお年寄りがいっしょにボールを追いかけることで、楽しみを共有できるのはよいことだと思います。
パチンコは、好きな人と嫌いな人がはっきり別れます。
しかし、どんな町にもパチンコ屋が必ずあり、いつも混んでいることを考えると、日本人の娯楽の中に必要がありそうです。
パチンコファンは老若男女を問わないようで、店の中には、さまざまな層の人がゲームを楽しんでいます。
カラオケは世代によって楽しみ方が違います。
若者はカラオケボックスで、歌うことを目的に、数時間を過ごします。
仲間だけでいられること、何人もで楽しめること、歌っている瞬間は主役でいられることなどから人気があるようです。
勤め返りのサラリーマンが立ち寄るバーなどにも、カラオケの設備のあるところが大半です。
「いっぱい飲みながら」歌うカラオケは、知らない人同士マイクを譲り合い、上手な歌に心からの拍手をし、下手な歌にもお世辞の拍手をする。
最近では外国人のために、各国語の局をそろえたところも出てきました「増える突然【とつぜん】死」最近、30代、40代の人の「突然死」が問題になっている。
きのうまで元気で働いていたが、急に倒れて、病院に運ばれる途中で死んでしまったとか、朝、なかなかおきないので見に行ったら、まう死んでいたとか、そんなニュースを新聞などで見ることがある。
私には信じられないことだが、もし本当ならとても恐ろしいことである。
なぜ、このような突然死が増えてきたのだろうか。
新聞によると、突然死の一番の原因は、毎日の忙しい生活や複雑な人間関係から来るストレスらしい。
30代、40代は一番元気に仕事ができる年代だが、そういう自信があるために、かえって無理をして、突然たおれってしまうのではないだろうか。
しかし、毎日一生懸命に働きつづけて、30代や40代で死んでしまうのは、実にさびしい人生だと思う。
昔とくらべると、現代はとても豊かで便利な会社だと思うが、若い人たちは仕事にばかり夢中にならないで、もっと人生をゆっくり楽しむべきである。
「私の国の教育」中国の義務教育は中学3年生までで、16歳までです。
中国では小学校から中学校に入学する時は試験がありません。
中学校から高校に入る時から試験があります。
高校から大学に入る試験はとてもむずかしいです。
進学校の高校3年生たちは、朝7時から夜時まで学校で勉強します。
試験科目が多いので入学試験に合格するためにはたくさん勉強しなければなりません。
一番たいせつな科目は国語と英語と数学です。
1クラスの30パーセントの生徒が大学へ進学します。
進学しない人は家にいる人もいますし、就職に合格する人もいます。
「3時間しかねなかったら入学試験に合格するが、4時間寝たら落ちる」という話があるほど、大学に入学試験は難しいです。
日本の予備校と同じような学校があるので、入学試験に落ちたらその学校で勉強します。
中国の教育はとても厳しくて、日本とあまりかわらないと思います。
「アルバイト」「アルバイト」はもともとドイツ語で「仕事」という意味であるが、日本では40年ほど前から、学生の副業の意味として使われるようになった。
現在、日本の大学生の90%以上がアルバイトを経験しているという。
そしてアルバイトのために学校を休む学生も多いそうである。
授業はやぼってもアルバイトにはいく。
そういう大学生たちは何のために働いているのだろうか。
あるアンケート調査によると、大学生のアルバイトは、サービス、販売など第3次産業の仕事が多い。
そして、「どうしてアルバイトをするのか」という質問に対しては「海外旅行をしたいから」「車を買うため」などの回答が多かった。
ほかにも、「貯金をして、留学の費用にするつもり」「学費は自分でかせぎたいから」「会社勉強になにから」という回答も見られたが、ごく少数てあった。
この調査結果からわかるように、アルバイトの目的は遊ぶためのお金をためることが中心となっている。
たとえ遊びが.主な目的でも、アルバイトをすることで、労働の尊さやお金を得ることの大変さを体験できるのだから、大きな意味がある。
しかし、アルバイトのためなら授業をさぼってもいいとのは問題である未来の自分「ああすれば、こうなる」型の社会では、さらに違った側面が現れる。
頭の中では、時間は過去、現在、未来に3分割される。
それなら、そのように日常的に使われる「ただいま現在」の意味とはなにか。
それは、すなわち、「予定された未来」を指すのである。
「ああすれば、こうなる」で囲い込まれたときだ、表現してもいい。
未来とはなにか。
本来の未来とは、なにが起こるかわからない「ああすれば、こうなる」で拘束されていない時間である。
日常の世界では、そういうものは「見ない」ことになる。
こうして世界はますます「ああすれば、こうなる」ものであるように「見える」ようになる。
その世界では、意識がすべてとなり、時間はすべて現在化するのである。
僕は未来のために生きるのではなく、今この瞬間を大切に生きることがよいと思う。
第一の理由は、先のことを考えても未来はどうなるかわからないからだ。
今、試験一週間前なのだが計画表というのがある。
その計画表はうまく書けるのだが、計画がうまくいかない。
いつもだらけちゃったり疲れたり。
そんなようなことが最近多い。
二つ目の理由は、未来のために今を犠牲にするのはむなしいからだ。
未来のために大人が子供に望む職業の男子は、1位公務員、2位スポーツ選手、3位医者。
未来のためには、今やりたいことを我慢してはいけないのだ。
確かに、予定を立てることは大切だが、「私たちの人生は、私が費やしただけの価値がある。
」という名言があるようにそのときそのときを精一杯生きていくことが大切だ。
今回の長文は、「予定された未来」と「真の未来」について書かれていましたね。
私たちは、「ああすれば、こうなる。
」と予定された未来を生きていることのほうが多いかもしれません。
けれども本当の人生というのは、行き当たりばったりと試行錯誤の連続です。
その行き当たりばったりの中にこそ生きている面白さがあると考えられればいいのですが、つい、現在は未来のための準備期間だと考えてしまうことが多いのですね。
未来のために現在を犠牲にして生きるのではなく、今この瞬間を生きていくことの大切さを考えるいい機会になったのではないかな?本当の自分らしさ一流ホテルの、いかにも「一流でござい」というロビーに、たいていこうした男女の一群がたむろしているのは、そうでないとどうしていいのかわからない客がいると考え、ホテル側があらかじめそれ専用の「仕出し屋」に頼んで用意しておく場合が多いからである。
もちろん、くり返しそこで待ちあわせをし経験を積むと、もう、そうした騒がしい男女の一群がいなくとも、何かとそれらしくそこに座っていられるようになる。
つまり、ホテルのロビーにいる「どうしようもない田舎者」と、「これこそが都会人」と思えるものは、双方ともホテルがわの「雇われ」なのだ。
確かに、自分らしさというものは大切だ。
私の学校は朝会などの改まった場でも、生徒一人一人が自分らしい格好や振る舞いをしている。
きちんと指定の制服をきている人もいれば、違う制服を着ている人、リボンやネクタイをつけてくるも多い。
もちろんジャージの人もいるし、半そでの人やほとんど私服に近い人もいる。
決してまったく同じ格好の人など一人もいないのだ。
生徒に限らず、大人の先生たちでも個性や自分らしさをだしている先生もいる。
国語の先生はなぜかとても気に入っているジャケットがありいつも着ている。
しかし、それは真っ赤な色で3ヶ所ぐらいに“日野南”と刺繍がほどこされているのだ。
みんなは、「いいなー。
」とか「かっこいい。
」とは言わず、あの先生らしいとしか言わない。
自分らしさというものは、自分のためにも大切にしていきたい。
(意見1)しかし、その場に応じた振る舞いも大切だ。
結婚式に黒いネクタイや黒い服では行かないし、お葬式に真っ赤なシャツを着て行くひともいない。
そのときの状態で自分を調節することが大切ということだ。
体育祭のときのルールで、顔にペインティングをして競技に参加すると得点が入らないというのがあった。
しかし、必ずダメと言われるとやりたがる人がいる。
その人たちのせいでみんなの苦労が水の泡になるということが毎年あるのだ。
(意見2)昔話で三匹のこぶたという話がある。
三匹のうち長男のぶたが造った家はレンガで丈夫だったため狼から逃れられたし、三男と次男のぶたも助けることができたのだ。
その場その場の事情を把握して行動することも大切なのだ。
(昔話)確かに、自分らしさや自分らしい振る舞いも、その場に応じた格好や振る舞いも、どちらもそれなりに大切だ。
しかし、共通して言えることは、そこに周囲の人に対する思いやりがあるかどうかということである。
自分勝手というのは自分らしいという意味ではないし、自分らしいというのは自分勝手という意味ではないのだ。
「家とは、外から見るためのものではなく、中で住むためのものである(名言)」という名言があるように、中に住んでいる人が周りの人にも気をくばり、みんなが心地よく過ごせるということが大事なのである。
自分らしさを表わすときも、その場の自分の姿も周囲の人への思いやりを大切にしていきたい。
(総合化)。