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鬼文化论文

かだま もの あ もの し こ を も もの ふせ あ よ は あよ あよあよ つく たつく くら
あ し は ら し こ を
つもの う 6) 。
⑷辺土異邦の人
⑸笠に隠れて視るもの
⑹死の国へみちびく力
といった六つ
の場合が出てくる。後世の鬼のイメージが育まれる型はここでほとんど出揃ったといえよ 前述した斉明天皇を殺した朝倉山の鬼(神)は、この地に来た大和朝廷の人々にとって
学者小松和彦は『怪異の民俗学④鬼』の中で、秋田のナマハゲを例にとり、異形の鬼仮面 と蓑笠扮装をした来訪神行事に、 「鬼」 の両義性と 「鬼」 が到来する時季的節目を注目した。 興味深いことに平安時代よりはるか以前の飛鳥時代には、もう鬼は存在していたというこ とである。しかし、 『日本書紀』に最初に登場する鬼は前述した角を生やし虎皮を身に着け た異形の姿をとらず、蓑と笠を着けた姿であったと記されている。それでは、 「鬼」はいつ の時代から現在のような姿と恐怖の対象となる性質を持つようになったのであろうか。 折口信夫によれば「鬼」という語は、もともと中国から来たものであるが、この国での 意味は死者の霊魂を指していた。日本に渡ってからは「鬼」は「モノ」と訓まれ、超自然 的な恐ろしい存在であり、姿を見せない隠れたものを意味するようになった。そこから本 来隠れたものを意味していた「隠」の語と合わさり「オニ」と訓まれるようになったとさ れる。その隠れたものが人々に具体的にイメージされはじめ、現在の姿になっていく過程 が「鬼」の歴史と考える。また、恐怖の対象であった鬼が、時代を経ると幼児に健やかな 成長をもたらす守護(神)へと変化を遂げ、また雷神と関係深い菅原道真の怨霊が、やが て国家的な祭祀をうけて学問の神や守護神へと変わっていった。このような現象に視点を 注ぐことにより日本文化の精神的風土を考察できるのではないか、小論ではそうした小さ な疑問と関心から考察をすすめていきたい。したがって、本稿では日本史と民俗学という 両領域の文献資料に依拠して「鬼」と呼ばれる存在を調べると同時に、大分県十宝山大乗 院に祀られている「鬼のミイラ」に関するささやかなフィールド調査から得たデータをも とに考察をすすめていくものとする。 「鬼」字が渡来する以前の古代、 「おに」は姿の見えないものを意味し、また姿を笠で隠し 姿を現さないものであった。 「鬼」字が渡来した後は本来日本にあった「おに」の概念に中 国の思想が加わり、醜いものの代名詞とされ、次第に「蝦夷」や「土蜘蛛」といった大和 朝廷にまつろわぬ民の呼称となっていった。中世に入り、仏教・陰陽道といった思想が流 布してからは、これまであった古い考え方と闇への恐怖に仏教の考え方が合わさって現在 の鬼の考え方になったと考えられる。姿の見えない存在であった鬼が、鬼とは醜いものと いう古来の考え方と陰陽道の「悪しきものは鬼門より来る」との考え方が合わさって浸透 することにより次第に、 (鬼門は丑寅の方角のため)方角にちなみ、牛のような角がはえ、 虎の毛皮を穿いた醜い姿が想像されるに至ったと思われる。以上のことから、私たちの作 りだす鬼のイメージは、仏教・陰陽道・神道といった宗教や私たちの身の回りを取り巻く 環境、 風習から成立していることがわかる。 恐怖の対象であった鬼が時代を経ると守護 (神) へと変化を遂げていく。 「忌むべき存在」 が人々に禍をもたらすことを恐れ祭祀をすること で、人々を「守護する存在」へと変化する。むしろ、変化させる日本文化の精神的風土の 存在に気付かせられた。
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は、辺境の人々が信仰する「邪しき神」「順はぬ鬼神」であった。それゆえ、宮殿造営の用材 に大和国の三輪山の木(三輪の神の神木)は伐らない彼らも、朝倉山の木は勝手に伐って 用材とした。そのために朝倉山の神は怒り、雷となり宮殿を壊し、鬼火となって崇り、天 皇と天皇近侍の人々を病死させた。 このことから、 朝倉山の神とこの神を信仰する人々は、 共に鬼神であり鬼であった 7) 。 また鬼は天皇の対極にある立場であり、討たれる存在であるが、その一方で天皇および 藤原摂関政治権力も鬼とみられていた。 まつろわせようとさせる時の権力も人を食う 「鬼」 とみられていたのである。 天皇と鬼の関係では、 「まつろわぬもの」 として存在である蝦夷や酒呑童子といったよう な天皇に従わない鬼、鬼を討つ側の天皇権力としての鬼と菅原道真や上御霊神社・下御霊 神社に祀られている人々のように天皇権力の側に居たものが権力から追放されてなる鬼の 三例がある。一つ目は権力に対立する鬼で、中心に対して周辺・辺境の存在である。二つ 目は権力としての見える鬼である。この権力から追放され、周辺・辺境の存在となった者 が、死後、見えない鬼(怨霊)となって二の鬼に祟るのが、三つ目の鬼である。このよう に天皇と鬼は、一見、対立的関係にあるようにみえるが、一つの実体の表と裏の関係にあ るとみなされる 8) 。 『古事記』には「鬼」表記は全く無く、 『日本書紀』では「鬼」と記されているものが 『古事記』 では「人」 として記述されているのである。 「ひと」 を 「もの」 と表現するのは、 「人間をヒト以下の一つの物体として蔑視した場合」なので、正史の編者は『古事記』の 編者と異なり、天皇権威を示す政策としてまつろわぬ民である蝦夷らを「もの」と呼び、 「鬼」の字を用いたのである 9) 。 つまり、 『古事記』に記してあった従来の物語に編者の意図が強く加わり、天皇の霊威と 天皇権力を知らしめたものが正史『日本書紀』なのだと解釈できよう。
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異人と鬼に関する一考察
学 年:4 年 86 組 14 番 学部学科:人間科学部人間科学科 氏 名:宮川 亜紀
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はじめに Ⅰ. Ⅱ. Ⅲ. まとめ 注 参考文献 鬼の誕生 鬼の伝承 鬼の民俗学

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は�めに
「鬼」と言う単語を聞くと多くの人はおそらくは虎の毛皮のパンツをはき、頭には角を
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生やし大きな金棒を持って人を襲う恐ろしい姿を思い浮かべるのではないだろうか。私が 「鬼」というものに興味を惹かれたのは小学校 6 年の時にガールスカウトのキャンプで初 めて訪れた長野県戸隠での戸隠神社参詣がきっかけである。都から追放された女が鬼と化 し、人を襲ったという「戸隠の鬼女伝説」や、鬼たちが天武天皇の遷都を阻んで、一夜に して山を作り上げたが、後に滅ぼされ(水無瀬という名から)鬼の無い里「鬼無里」と変 えられたという「一夜山伝説」の二つの伝承に出会ったことがきっかけであった。神話に よれば天の岩戸が飛ばされて「戸隠」となったこの里に、神と対局の存在である鬼の伝説 が二つも存在している。民俗学者小松和彦は『怪異の民俗学④鬼』の中で、秋田のナマハ ゲを例にとり、異形の鬼仮面と蓑笠扮装をした来訪神行事に、 「鬼」の両義性と「鬼」が到 来する時季的節目を注目した。 興味深いことに平安時代よりはるか以前の飛鳥時代には、もう鬼は存在していたという ことである。しかし、 『日本書紀』に最初に登場する鬼は前述した角を生やし虎皮を身に着 けた異形の姿をとらず、蓑と笠を着けた姿であったと記されている。それでは、 「鬼」はい つの時代から現在のような姿と恐怖の対象となる性質を持つようになったのであろうか。 恐怖の対象であった鬼が、時代を経ると幼児に健やかな成長をもたらす守護(神)へと変 化を遂げ、また雷神と関係深い菅原道真の怨霊が、やがて国家的な祭祀をうけて学問の神 や守護神へと変わっていった。このような現象に視点を注ぐことにより日本文化の精神的 風土を考察できるのではないか、小論ではそうした小さな疑問と関心から考察をすすめて いきたい。したがって、本稿では日本史と民俗学という両領域の文献資料に依拠して「鬼」 と呼ばれる存在を調べると同時に、大分県十宝山大乗院に祀られている「鬼のミイラ」に 関するささやかなフィールド調査から得たデータをもとに考察をすすめていくものとした い。 小論はIで鬼の誕生、Ⅱで鬼の伝承、Ⅲで鬼の民俗学的視点から異形の扮装である蓑笠 に注目し、段階的に考察を進めるものとしたい。
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日本の文献に「鬼」字が登用されたはじめは『出雲の風土記』の「昔、或人、此処に 山田を佃りて守りき。その時、目一つの鬼来りて、佃 る人の男を食ひき。その時、男の父 母、 竹林の中に隠りて居りし時に、 竹の葉動げり。 その時、 食はるる男、 「動動」 といひき。 故、阿欲といふ。 」という大原郡阿用郷の名称起源を説いた文である。しかしこの文献に出 てくる「鬼」を「おに」とよませたのかははっきりしていない。また、ほかの文献にもみ られない。しかし、 『日本書紀』の「斉明紀」には朝倉山の上から「鬼」が笠を着て斉明天 皇の喪の儀を見ていたという記事があることから阿用の鬼も含めておよそ 600 年後半から 「おに」と「鬼」の一体化があったとみてよいと大和は述べている 1) 。 大和によれば「鬼」字の登用について注目すべきことは、 『古事記』がまったくこの文字 を捨てているのに対して、政治に対して積極的でしばしば闘争的でさえある『日本書紀』 が、この文字を盛んに使用していることである。 「景行紀」においては、鬼は邪神と対を成 す同系のものとして認識されている。また、 「神代紀」の国譲りのあと、高天原から派遣さ れた神が、 「諸の順はぬ鬼神を誅ひ」という書き方もされている。ここで、 「鬼神」を「か み」とよまれる習慣も、 「誅ひ」という対象が、 「かみ」に当たる、先住民の国つ神であっ たというばかりでなく、 「景行紀」にかかれたように、 「邪しき神」と「姦しき鬼」が近似 したものとして対を成す考え方があったからである。そして強い民族意識を表立てつつ、 討伐の記事に満ちている『日本書紀』が誅されるべき運命にあったものに対して結果論的 に「鬼」字をあてたことは、日本に定着せしめられつつあった初期的な鬼の概念をものが たるものであり、また忌避すべき鬼のイメージは辺境異風の蛮族としての側面を加えつつ あった 2) 。 「鬼」 が現在のように 「おに」 と呼ばれるようになったのは平安時代以降のことであり、 それ以前は「もの」 「しこ」と呼ばれていたのだが、 『古事記』には「鬼」表記は全く無い のである。記紀において初めて「鬼」の字が表わされるのは神代記のイザナギの黄泉から の逃亡譚の追記である「桃を用て鬼を避く縁なり」という文なので、おそらく『日本書紀』 最終編纂期である奈良時代頃に初めて用いられた新しい表記であると思われる 3) 。 また、 「しこ」と呼ぶ例として、大国主神が挙げられる。大国主神の別名は「葦原色許男」 (葦原醜男)といい、かの神が黄泉の国である「根の堅州国」に行った時のみこの名を名 乗っていたため、 「しこ」という呼び方を使うのは死の国に関わる場合であり、またもとも と中国の鬼に男性的なイメージがあったために「鬼」を「醜男」の意味をこめて「しこ」 と呼んでいたのではないかと大和は述べている 4) 。 しかし、 『万葉集』を見ても、 「しこ」より「もの」と呼んでいるものの方が三倍近く多 いため、 「鬼」は主に「もの」と訓まれていたとみるべきだろう。 正史としての『日本書紀』の立場における神・人・鬼・物の関係から、神・人で物に近 いものが「鬼」であるから、葦原中国の神を「葦原中国の邪しき鬼」といい、蝦夷らのよ うな異人を、 「姦 しき鬼」としているのである 5) 。 以上述べてきたものは、早期の日本文学にあらわれた鬼の例である。これらを概括して みると、鬼とは、⑴異形のもの ⑵形を成さぬ感覚的な存在や力 6 ─ 170 ─ ⑶神と対をなす力をも
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