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广外日语本科自考_日本文学选读(近世及近代部分)

广外日语本科自考日本文学选读近世及近代部分近世部分小説一、概観1、近世文学は二つの時期に分けられ、一つは上方文学期と呼び、元禄文学期ともいう、も一つの時期を江戸文学期と呼ぶ、また、江戸文学期に前半を天明文学といい、後半を化政文学と呼ぶ2、江戸時代を代表する文学者は俳諧の松尾芭蕉、小説の井原西鶴、演劇の近松門左衛門である3、江戸時代に、代表的な作家は浮世草子の井原西鶴、読本の滝沢馬琴、上田秋成、滑稽本の式亭三馬、洒落本の山東京伝、草双紙の柳亭種彦、黄表紙の恋川春町、人情本の為永春水などである二、浮世草子1、井原西鶴〔1642-1693〕は談林派作者で、彼の作品を分類すると、〔好色物〕〔武家物〕〔町人物〕〔雑話集〕に分けられる。

〔好色物〕と〔町人物〕は彼の得意な作品である。

まず、〔1682-好色一代男〕を発表し、その後、〔好色二代男〕を発表した。

1686に、〔好色五人女〕や〔好色一代女〕を書いた。

さらに、1688に〔日本永代蔵〕や〔1692-世間胸算用〕を書いた。

また、〔1687-武道伝来記〕〔1685-西鶴諸国話〕〔1687-武家義理物語〕〔1693-西鶴置土産〕〔1696-万の文反古〕なども見られる。

2、西鶴が没後、京都の江島其績の浮世草子〔1715-世間息子気質〕は当時の浮世草子に新風を吹き込んだ、他にも〔世間娘気質〕〔浮世親仁気質〕〔けいせい色三味線〕などある、彼の作品は京都の八文字屋から出版されたので、八文字屋本とも言われる。

三、読本1、18世紀中ごろ、最初の読本〔英草子〕、その後編〔繁野話〕が読本始祖といわれ、大阪の儒医都賀庭鐘によって、著される。

2、建部綾足は〔1768-西山物語〕〔1773-本朝水滸伝〕を、上田秋成の〔1776-雨月物語〕〔春雨物語〕を著して、前期読本の完成に導いた。

3、上田秋成〔1734-1809〕は歌人、国学者、読本作家で、都賀の影響を受け、流麗な雅文体で〔1776-雨月物語〕を書いた、全部で九話からなる。

晩年の〔春雨物語〕も注目された。

4、山東京伝は〔忠臣水滸伝〕〔桜姫全伝曙草子〕などで、評判を取るが、その後振るわず、読本作者として、滝沢馬琴にミチを譲ることになった。

5、滝沢馬琴〔1767-1848〕は別号曲亭、〔1814-1842-南総里見八犬伝〕は98巻106冊に及ぶ。

他の作品は〔1808-三七全伝南珂夢〕〔1807-1810-椿説弓張月〕が〔八犬伝〕とともに、三大奇書と言われる四、仮名草子1、仮名草子の代表作は鈴木正三の〔1632-二人比丘尼〕や朝山意林庵の〔1638-清水物語〕、如儡子の〔1642-可笑記〕、イソップ物語の翻訳である〔1639-伊曾保物語〕、著名な古典〔1639-伊勢物語〕をパロディー化した〔仁勢物語〕、安楽庵策の〔醒睡笑〕、富山道冶の〔1615-1624-竹斎〕、浅井了意の〔1661-1673-浮世物語〕などがある2、仮名草子作者で第一人と目されるのは浅井了意で〔浮世物語〕以外にも、〔1666-伽婢子〕や〔1660-東海道名所記〕など、後世にも大きな影響を及ぼした3、〔醒睡笑〕は噺本で八巻からなる、作者は浄土宗の説教僧安楽庵策であった。

五、洒落本1、田舎老人の〔1770-遊子方言〕にっよて、会話体の洗練された描写力をもつ洒落本の定型が確立された。

2、山東京伝の〔1787-通言総離〕や〔1790-傾城買四十八手〕などの傑作が生まれた六、滑稽本1、前期滑稽本として、静観房好阿の〔1752-当世下手談議〕が先駆で、風来山人作1761〔根南志具佐〕や〔風流志道軒伝〕は出色な作品である。

2、後期滑稽本として、十返舎一九の〔1802-東海道中膝栗毛〕をもって、始まりとする。

一九に尐し遅れて、滑稽本を発表したのが式亭三馬で、彼は〔1809-浮世風呂〕〔1812-浮世床〕などの作品がある七、人情本為永春水が代表できな作家で〔1832-春色梅児誉美〕とその続編に当たる〔春色辰巳園〕がある。

八、草双紙1、表紙の色で赤本、黒本、青本、黄表紙と呼ばれる、後に出てくる合巻とともに、草双紙と呼ばれる。

2、黄表紙は子供向きの内容とするものであったが、恋川春町の〔金々先生栄華夢〕が出て以来、大人向きの物となった。

1785には、京伝の〔江戸生艶気樺焼〕などが生まれる。

3、合巻の最初の物と言われているのは式亭三馬の〔雷太郎強悪物語〕である、また、柳亭種彦の〔1842-偐紫田舎源氏〕がある詩歌九、俳諧1、和歌の一種をとして独立させたのは松永貞徳である、後世が貞徳を中心とする俳諧一派を貞門と呼ぶ。

貞徳は〔新撰犬筑波集〕を評判して、〔新増犬筑波集〕を著した。

門人は松江重頼、北村季吟、安原貞室などいる。

1633の貞門の最初の俳諧集を〔犬子集〕といい、1651の〔御傘〕がある2、西山宗因を中心とする談林派は貞門派のかわり、人々の目を引いた、彼は後世に談林俳諧の祖と言われた。

3、松尾芭蕉は〔1644-1694〕本名宗房である、初めは北村季吟のもとで、貞門俳諧を学び、そのあと、談林派と交流をもった、後世に〔俳聖〕と呼ばれ、代表作は〔奥の細道〕である、他にも〔1684-冬の日〕〔1691-猿蓑〕〔1694-炭俵〕など。

また、初めての紀行文〔1684-野ざらし紀行〕を生み出した。

ほかにも、〔1687-鹿島紀行〕〔1688-笈の小文ー更科紀行〕など、傑作として名高いなのは〔奥の細道〕である。

4、芭蕉が没後、与謝蕪村(1716-1783)の〔春風馬堤曲〕や〔北寿老仙をいたむ〕は瑞々しい变情に溢れる一種の長編自由詩で、近代の詩人達の評価が高い。

5、幕末の俳諧に、小林一茶(1763-1827)の〔1820-おらが春〕が名高い。

6、芭蕉没後、向井去来の〔去来抄〕、服部嵐雪の〔1702-三冊子〕を著し、不易流行論など芭蕉の俳論を伝えた。

また、榎本其角は江戸座の俳祖となった。

各務支考は平俗な句風で美濃派と呼ばれた十、狂歌1、生道堂行風が1666に古今の狂歌を集めた〔古今夷曲集〕を出版した後、狂歌もまた流行の兆しを見せた。

そして、浪花ぶりを提唱する永田貞柳の登場によって、上方狂歌は全盛期を迎えた。

2、近世後期になると、幕臣の唐衣橘洲や四方赤良や朱楽菅江などを中心に、鋭い機知と軽妙洒脱な作風を特徴とした、1783に、〔万載狂歌集〕が出版されて全盛を向かえ、天明狂歌と呼ばれた。

十一、川柳1、、1765に、柄井川柳が選んだ句を呉陵軒可有が編集し、〔俳風柳多留〕と名づけて刉行した。

十二、漢学1、新井白石は自变伝〔折たく柴の記〕を、室鳩巣は〔駿台雑話〕という優れた随筆を著した十三、漢詩文1、江戸前期、特に有名な詩人は頼山陽、梁川星巌で、〔山は山陽、詩は星巌〕と言われるほど。

十四、和歌と国学1、国学は元禄三年(1690)に、契沖が〔万葉集〕の注釈書〔万葉代匠記〕などの国学的な研究に発した、国学成立の基礎を築いた。

2、十八世紀の初めのころ、荷田春満は前代の〔古事記〕や〔日本書紀〕などの日本の古典を研究する。

門人としての賀茂真淵は契沖と春満の思想を継承して、国学を一つの学問として、確立した3、本居宣長は1790に〔古事記伝〕を記した。

彼は〔源氏物語〕の本質を<もののあわれ>の表現をも説いた。

芸能十五、浄瑠璃1、室町後期、牛若丸と浄瑠璃姫との恋を扱う〔浄瑠璃物語〕によって、浄瑠璃に呼ばれるようになった。

2、近松門左衛門は〔1653-1724〕本名杉森信森で江戸中期の浄瑠璃の代表作家である。

〔世継曽我〕を書いて、名を広めた。

〔冥土の飛脚〕や〔1686-出世景清〕、〔1715-国性爺合戦〕〔1703-曽根崎心中〕〔1720-心中天の網島〕〔1720-女殺油地獄〕〔信州川中島合戦〕がある十六、歌舞伎1、17世紀の末、歌舞伎は飛躍な発展を遂げた、この時代に、坂田藤十郎、市川団十郎などの名優が活躍した。

特に、近松は藤十郎のために、四十余編の書いた。

作品には、〔傾城仏の原〕や〔傾城壬生大念仏〕〔一心二河白道〕などが有名である。

団十郎が三升屋兵衛という筆名で〔参会名護屋〕などを書き、荒事歌舞伎を自作自演した。

2、化政期の頃、四世鶴屋南北が当時の劇作家として有名、代表作は〔東海道四谷怪談〕である3、幕末から、明治にかけて、優れた劇作家は河竹黙阿彌である、代表作は〔鼠子紋東君新形〕や〔1860-三人吉三廓初買〕〔青邸稿花紅彩画〕〔白浪物〕などある近代部分近代の文学流派及び代表作家一、写実主義1、坪内逍遥(1859-1935)、写実主義の先駆者と言われている。

「小説神髄」は1885年文学の理論書として書かれた。

その実践作として、「当世書生気質」「細君」があるが、それまでの劇作文学の影響から脱し切れておらず。

以後「早稲田文学」の刉行に尽力し、演劇や翻訳に打ち込むことになる。

2、二葉亭四迷(1864-1909)東京に生まれ、本名は長谷川辰之助という、坪内の影響をうけ、「小説総論」の中で、模写の必需性を唱えた。

1887年に、「浮雲」を書いた。

後に、「其面影」「平凡」を書いたが、1909年、ロシア赴任からの帰国途中、客死した3、伝統的な勧善懲悪の功利的な文学観を打破しようとして、坪内が「小説神髄」の発表で写実を提唱し、さらに二葉亭四迷は「小説総論」でその立場を徹底させた。

二、擬古典主義(紅・露の時代)1、明治18年、尾崎紅葉・山田美妙・広津柳浪・川上眉山・巌谷小波らによって、硯友社を創立し、これは日本において最初の文学社である。

機関紙「我楽多文庫」を発刉した、これは日本の初の純文学雑誌である2、紅葉(1867-1903)は初めは劇作風小説や新体詩を発表したが、雅俗折衷体で中世を舞台の悲恋物語を展開した「二人比丘尼色懺悔」で認められ、「である」体で写実主義の傑作「多情多恨」などを書いた。

晩年の大作「金色夜叉ー1897~」は明治期最高の人気になったが、未完成のままで、去った。

ほかにも、西鶴を模した「伽羅枕」「二人女房」「三人妻」がある3、幸田露伴(1867-1947)がよく紅葉と並称されているが、紅葉が写実的に対して、露伴は古代の幽玄美や中世の徳目を理想とする幻想的な作家である。

代表作は「五重塔」「風流仏」がある、ほかにも、「露団々」「一霎那」「一口剣」「風流微塵蔵」「空うつ浪」「芭蕉七部集」など。

三、ロマン主義1、森鴎外(1862-1922)は本名が森林太郎である。

彼はまだドイツ留学を記念する小説「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」の三部作を綴った。

特に「舞姫」は近代的自我に目覚めた青年の苦悩を写して、二葉亭四迷の「浮雲」とともに、日本近代文学の先駆的作品と評価されている。

2、北村透谷(1868-1894)は22歳に「楚囚の詩ー1889」、これは彼の最初の作品であるとともに、日本近代詩として後世に評されている。

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