近世文学キーワード:町人文学上方(かみがた・かみかた)は、江戸時代に大坂や京都を初めとする畿内(きない、きだい、うちつくに)を呼んだ名称である。
元禄(げんろく、旧字体では元祿)は、日本の元号(げんごう)の一つ。
貞享(じょうきょう)の後、宝永(ほうえい)の前。
1688年から1703年までの期間を指す。
この時代の天皇は東山天皇(ひがしやまてんのう)。
江戸幕府将軍は徳川綱吉(とくがわつなよし)。
山崎宗鑑(やまざきそうかん、寛正(かんしょう)6年(1465年)? - 天文(てんぶん、てんもん)22年10月2日(1553年)?)は、戦国時代の連歌師・俳諧作者。
本名を志那範重、通称を弥三郎と称し、近江国(おうみのくに、現在の滋賀県)の出身とされるが、本名・出自については諸説あり定かではない。
荒木田守武とともに、俳諧の祖と称される。
貞門派(ていもんは)は、江戸時代前期の歌人・俳人で連歌も行った松永貞徳(まつながていとく)(1571年-1654年)によって提唱された俳諧の流派。
貞徳は、俳諧が和歌・連歌を詠むにあたっての基礎であると考え、俗語や漢語などのいわゆる俳言(はいごん)を使うことを主唱した。
貞門派の俳風は言葉遊びの域を出ず、その後西山宗因(にしやまそういん)が主張した談林派俳諧に押されるようになるが、江戸時代後期まで影響力を有した。
談林派(だんりんは)は、西山宗因(にしやまそういん)らを中心にして江戸時代に栄えた俳諧の一派。
松永貞徳門下による貞門派に代わって俳壇の中心を占めた。
連歌師でもあった西山宗因のほか、浮世草子作者でもある井原西鶴(いはらさいかく)、京の菅野谷高政、江戸の田代松意らが活躍した。
後に衰えて松尾芭蕉による蕉風が盛んになる。
談林派の作風は「心付」と呼ばれた。
松尾芭蕉(まつおばしょう、寛永(かんえい)21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日))は現在の三重県伊賀市出身の江戸時代前期の俳諧師である。
幼名は金作。
通称は藤七郎、忠右衛門、甚七郎。
名は宗房。
俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。
蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立し、俳聖と呼ばれる。
芭蕉が弟子の河合曾良(かわいそら)を伴い、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸(ほくりく)を巡り岐阜の大垣(おおがき)まで旅した紀行文『奥の細道』(おくのほそみち)がある。
蕉風(しょうふう)とは、松尾芭蕉を祖とする俳諧の流派である。
正風とも書き、蕉門ともいう。
松尾芭蕉は、当初談林派の俳諧であったが、それまでの日本における詩歌を基にしながらも、日常的なものを素材とする独自の俳諧の流儀を生み出した。
俳諧における蕉風の理念は、「侘び」・「寂び」・「しをり」・「ほそみ」・「かろみ」などの言葉で表される。
御伽草子(おとぎぞうし)とは、室町時代から江戸時代にかけて成立した、短編の絵入り物語、およびそれらの形式。
広義に室町時代を中心とした中世小説全般を指すこともある。
お伽草子、おとぎ草子とも表記する。
御伽草子の延長に生まれ、仮名を用いた庶民向けの読み物として出版され、雑多な分野を含む。
作者の多くは当時の知識人層であり、浅井了意(あさいりょうい)、鈴木正三(すずきしょうさん)、烏丸光広(からすまるみつひろ)らが知られている。
仮名草子の中から井原西鶴による『好色一代男』(こうしょくいちだいおとこ)などの優れた文芸が著されるようになり、これは後に浮世草子と区別して呼ばれるようになる。
井原西鶴(いはらさいかく、本名:平山藤五(ひらやまとうご)、1642年(寛永19年)- 1693年9月9日(元禄6年8月10日))は、江戸時代の浮世草子・人形浄瑠璃作者、俳人。
別号は鶴永、二万翁。
晩年名乗った西鵬は、時の5代将軍徳川綱吉が娘鶴姫を溺愛するあまり出した「鶴字法度」(庶民の鶴の字の使用禁止)に因む。
浮世草子(うきよぞうし)は、江戸時代に生まれた前期近世文学の主要な文芸形式のひとつ。
浮世本。
井原西鶴の『好色一代男』(1682年刊行)以降の一連の作品を、それまでの仮名草子とは一線を画するものとして、今日では浮世草子と呼ぶ(当時は「草双紙」と呼ばれ、「仮名草子」・「浮世草子」はのちになって区別されたもの)。
元禄期、大坂を中心に流行し、民衆生活の幅広い主題を扱って多くの作品が書かれた(浮世には世間一般という意味と、色事、好色といった意味がある)。
京都の八文字屋から出版されたものは特に「八文字屋本(はちもんじやぼん)」と呼び、元禄から18世紀中頃の明和期まで刊行された。
創始者と言える西鶴の業績が最も著名であり、江島其磧の『世間子息気質』『世間娘容姿』など一部を除き、後に続いた作品に有名なものは尐ない。
近松門左衛門(ちかまつもんざえもん、近松門左衞門、承応(じょうおう)2年(1653年) - 享保(きょうほう、きょうほ)9年11月22日(1725年1月6日))は江戸時代前期の元禄期に活躍した人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)と歌舞伎の作者である。
本名は杉森信盛。
生まれは越前国または周防国(すおうのくに)、長門国(ながとのくに)といわれる。
文楽(ぶんらく)は、本来操り人形浄瑠璃専門の劇場の名である。
しかし、現在、文楽といえば一般に日本の伝統芸能である人形劇の人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)を指す代名詞的存在である。
竹本座に属する浄瑠璃作者で、中途で歌舞伎狂言作者に転向したが、再度浄瑠璃に戻った。
『出世景清』(しゅっせかげきよ)は近世浄瑠璃の始まりといわれる。
100作以上の浄瑠璃を書いたが、そのうち約20曲が世話物、残りが時代物であった。
世話物とは、町人社会の義理や人情をテーマとした作品であるが、当時人気があったのは時代物、特に『国性爺合戦』(こくせんやかっせん)であり、『曽根崎心中』(そねざきしんじゅう)などは昭和になるまで再演されなかった。
同時期に紀海音(きのかいおん)も門左衛門と同じ題材に基づいた心中浄瑠璃を書いており、当時これに触発されて心中が流行したのは事実であるが、世話物中心に門左衛門の浄瑠璃を捉えるのは近代以後の風潮に過ぎない。
また、門左衛門は「虚実皮膜論」という芸術論を持ち、芸の面白さは虚と実との皮膜にあると唱えたといわれるが、これは穂積以貫(ほづみいかん/これつら)が記録した『難波土産』に門左衛門の語として書かれているだけであり、門左衛門自身が書き残した芸能論はない。
『国性爺合戦』日本人を母に持ち、台湾を拠点に明朝の復興運動を行った鄭成功(ていせいこう)(国性爺、史実は国姓爺)を題材にとり、これを脚色。
結末を含め、史実とは異なる展開となっている。
和藤内(鄭成功)が異母姉の夫・甘輝との同盟を結ぶ「甘輝館」が有名。
『曽根崎心中』は、元禄16年4月7日(1703年5月22日)早朝に大阪堂島(どうじま)新地天満屋の女郎・はつ(21歳)と内本町醤油商平野屋の手代である徳兵衛(25歳)が梅田・曽根崎の露天神(つゆてんじんじゃ、つゆのてんじんじゃ)の森で情死した事件に基づいている。
大御所時代(おおごしょじだい)は江戸時代、寛政の改革と天保の改革の間の期間で、第11代将軍徳川家斉(とくがわいえなり)の治世。
家斉は隠居して大御所となってからも政治の実権を握っていたため、後の人が「大御所時代」と呼ぶようになった(その通称から時々誤解されやすいが、「大御所時代」には家斉が将軍の地位にあった50年間も含まれる。
一方、実際に大御所であったのはわずか4年である)。
また同時期の代表的な元号より文化文政時代(ぶんかぶんせいじだい)、あるいはこれを略した化政時代(かせいじだい)という呼称が用いられる場合がある。
この時代は、江戸を中心に、化政文化が栄えた一方、江戸幕府が衰退する始まりでもあったのである。
天保の改革の影響は大きく、厳しい統制の時代になったため、昔を懐かしんだ人々が大御所時代と呼び始めたともいわれる。
与謝蕪村(よさぶそん、よさのぶそん、享保元年(1716年) - 天明3年12月25日(1784年1月17日))は、江戸時代中期の日本の俳人、画家。
本姓は谷口、あるいは谷。
「蕪村」は号で、名は信章通称寅。
「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩「帰去来辞」に由来すると考えられている。
俳号は蕪村以外では「宰鳥」、「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」、「謝寅(しゃいん)」など複数の名前を持っている。
松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人であり、江戸俳諧中興の祖といわれる。
また、俳画の創始者でもある。
写実的で絵画的な発句(俳句)を得意とした。
独創性を失った当時の俳諧を憂い『蕉風回帰』を唱え、絵画用語である『離俗論』を句に適用した天明調(てんめい、日本の元号の一つ)の俳諧を確立させた中心的な人物である。
小林一茶(こばやしいっさ、宝暦13年5月5日(1763年6月15日)- 文政10年11月19日(1828年1月5日))は、江戸時代を代表する俳諧師の一人。
本名を小林弥太郎。
信濃(しなの)北部の北国街道(ほっこくかいどう)柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)の貧農の長男として生を受ける。
3歳の時に生母を失い、8歳で継母を迎える。
継母に馴染めず江戸へ奉公に出、25歳のとき二六庵小林竹阿に師事して俳諧を学ぶ(論拠不肖であるが、藤沢周平(ふじさわしゅうへい)著『一茶』では小林竹阿には実際あったこともなく弟子というのは一茶の詐称との記述がある)。
29歳の時、故郷に帰り、翌年より36歳の年まで俳諧の修行のため近畿・四国・九州を歴遊する。
39歳のとき再び帰省。
病気の父を看病したが1ヶ月ほど後に死去、以後遺産相続の件で継母と12年間争う。
一茶は再び江戸に戻り俳諧の宗匠を務めつつ遺産相続権を主張し続けた。
50歳で再度故郷に帰り、その2年後28歳の妻きくを娶り、3男1女をもうけるが何れも幼くして亡くなっていて、特に一番上の子供は生後数週間で亡くなった。
きくも痛風がもとで37歳の生涯を閉じた。
2番目の妻(田中雪)を迎えるも老齢の夫に嫌気がさしたのか半年で離婚。
3番目の妻やをとの間に1女・やたをもうける(やたは一茶の死後に産まれ、父親の顔を見ることなく成長し、一茶の血脈を後世に伝えた。
1873年に46歳で没)。
作風幼尐期を過ごした家庭環境から、いわゆる「継子一茶」、義母との間の精神的軋轢を発想の源とした自虐的な句風をはじめとして、風土と共に生きる百姓的な視点と平易かつ素朴な語の運びに基づく句作が目を引く。
戯作は、洒落本、滑稽本、談義本、人情本、読本、草双紙などに大きく分けられる。
さらに草双紙は内容や形態によって赤本、黒本、青本、黄表紙、合巻に分けられる。