第十一届CASIO杯翻译竞赛主办:上海市文学艺术界联合会上海世纪出版股份有限公司承办:上海翻译家协会上海译文出版社《外国文艺》杂志协办:卡西欧(上海) 贸易有限公司沪江网征文启事由上海翻译家协会和上海译文出版社共同承办,以推进我国翻译事业的繁荣发展,发现和培养翻译新人为宗旨的CASIO杯翻译竞赛,继成功举办了十届之后,已成为翻译界的知名赛事。
今年,本届竞赛特设两个语种——英语和日语。
具体参赛规则如下:一、本届竞赛为英语、日语翻译竞赛。
二、参赛者年龄:45周岁以下。
三、竞赛原文将刊登于2014年第3期(2014年6月出版)的《外国文艺》杂志、上海译文出版社网站、上海翻译家协会网站和沪江网。
四、本届翻译竞赛评选委员会由各大高校、出版社的专家学者组成。
五、本届比赛联合沪江网,首次采用网络参赛方式,英语组选手请将译作发送到eng@,日语组请发送到jp@。
请于邮件标题中写明:CASIO杯翻译竞赛;正文不需书写。
注意附件中须包括两个文件:译文和个人信息。
译文中请不要添加任何与译者个人身份信息相关的文字或符号,否则译文无效;个人信息中请写明姓名、性别、出生年月日、工作学习单位及家庭住址、联系电话、E-MAIL地址等。
六、参赛译文也可打印后寄往(两种参赛方式请择一投稿,切勿重复投递):上海市福建中路193号上海译文出版社《外国文艺》编辑部,邮政编码200001。
信封上注明:CASIO杯翻译竞赛。
译文正文内请勿书写任何与译者个人身份信息相关的文字或符号,否则译文无效。
请另页写明详尽的个人信息,具体内容请参见上一条。
参加评奖的译文恕不退还。
七、参赛译文必须独立完成,合译、抄袭或请他人校订过的译文均属无效。
八、截稿日期为2014年8月10日(邮寄稿件以当日邮戳为准)。
九、为鼓励更多的翻译爱好者参与比赛,提高翻译水平,两个语种的竞赛各设一等奖1名(证书及价值6000元的奖金和奖品),二等奖2名(证书及价值3000元的奖金和奖品),三等奖3名(证书及价值2000元的奖金和奖品),优胜奖20名(证书及价值300元的奖品),此外还设优秀组织奖1名(价值5000元的奖金和奖品)。
各奖项在没有合格译文的情况下将作相应空缺。
获奖证书及奖品务必及时领取,两年内未领者视为自动放弃。
十、《外国文艺》将于2014年第6期(2014年12月出版)公布评选结果并刊登优秀译文,竞赛结果同时在上海译文出版社网站、上海翻译家协会网站和沪江网上公布。
十一、以上条款的解释权归上海译文出版社所有。
英语组评委(按姓氏笔画):冯庆华:上海外国语大学副校长、教授、博导,上海翻译家协会理事吴洪:上海译文出版社副总编,上海翻译家协会副会长张春柏:华东师范大学外语学院教授、博导,上海翻译家协会副会长黄源深:上海对外经贸大学教授、博导翟象俊:复旦大学外文学院教授日语组评委(按姓氏笔画):沈维藩:上海译文出版社编审,上海翻译家协会理事林少华:中国海洋大学外国语学院日语系教授,兰州大学兼职教授,中国日本文学研究会副会长,青岛市作家协会副主席高宁:华东师范大学外语学院副院长、教授、博导上海翻译家协会理事韩小龙:东华大学外语学院教授、硕士生导师谭晶华:上海外国语大学教授、博导,中国翻译协会副会长,上海翻译家协会会长第十一届 CASIO 杯翻译竞赛原文(日语组)鳥と名と唐木順三去年の今ごろは、毎日必ず出てきて、朝から晩まで、水槽のへり、風蝶花の陰に、寂然不動、只管打坐していたかえるが、今年は出てこない。
数日前、同形同色の小がえるが、つかの間、姿を現し、水の中から首だけ出していたのを見掛けたが、それなりで姿を消してしまった。
今年は六月、七月と、冷害で飢饉をまで心配した気候であったせいか、風蝶花の育ちも悪く、尺余に伸びただけで、花の房もまだ一つで、その先に小さいつぼみの姿をようやく探し得るにすぎない。
従って風蝶花が存分の葉陰をなすに至らず、かえるの育ちも悪く、どうも去年のような趣をなさない。
そう思って、今日、水槽の辺りを眺めていると、今年植えたばかりの菖蒲の葉がかすかに落とす影に、小がえるが二匹、寄り添うようにうずくまって、折からの暑さに激しい呼吸をしていた。
去年のとまさに同種だが、まだおどおどとした小がえるで、こちらとのなじみがわかない。
かえるの代わりに、今年は一羽の鳥となじみができた。
水槽の近い所に築いた盛り土の土手に、今年の五月、十本ほどの白樺を一列に植えた。
そのうちの一本、水槽にいちばん近いのの小枝に、毎日、四度、五度と一羽の小鳥がやって来て、しばらくさえずり続けてゆく。
来る時刻には多少のずれはあるが、止まる小枝はほとんど決まっている。
木の中程の斜めに伸びた、小指にも足りない太さの小枝である。
この小鳥の名はなんと言うのか。
土地の人にも聞いてみたが分からない。
すずめより少し大きく、尾も少し長いが、羽の色はよく似ている。
頭は黒く、目を中に挟んで、白い線が二本延びている。
つまり左右四本の、鮮やかな白い線が、黒い頭を走っている。
首筋は灰色というより白に近い。
その鳴き声を写そうと思っても、なかなか写すのが難しい。
ピーチク、ピーチクピ、と聞こえるときもある。
ツツピ、ツツピ、と聞こえる、いや鳴くときもある。
ツツーピ、ツーピ、というときもある。
小枝に止まって、空に向かってくちばしを真っすぐに立てて三声、四声と鳴き続けた後で、羽のかいつくろいをやっている。
つと、隣の荒れた雑草の中へ飛び降りて、えさをあさって小枝に戻り、くちばしを小枝でこすって後味を楽しんでいるときもある。
この鳥は群れては来ない。
いつも一羽きり。
時に二、三羽のすずめが好奇心を持ってか、近くの枝にやって来ることはある。
格別に親しみを示しはしないが、無愛想でもない。
すずめたちは己のそれと違う鳴き声にやや感心のていである。
しかし必ずまた一羽になる。
この鳥はあまりびくびくとはしていない。
人を恐れないというほどではないが、人の影がちらついても、鳴くことをやめない。
この鳥がいるうちは、こちらもなるべく静かにしている。
そういうことを、かれこれ二十日間も続けているうちに、いくらか気心が通うようになってきた。
彼女が鳴くのをやめているとき、こちらが下手くそながら、ツツピ、ツツピ、と誘ってやると、それに応じて鳴くようになった。
ツツピよりもっと複雑だが、その調べを文字にしかねる。
あの一羽の鳥は、なぜここへ来て、あの白樺のあの枝に止まり、そして首を真っすぐに立てて鳴き尽くすのだろう。
どういう縁でそうなり、それをこちらがまた聞くことになったのだろう。
なぜあの鳥は、いつもああいう声で鳴くのだろう。
いったいどう思って鳴いているのだろう。
一羽の鳥と気脈が通じるようになって、私は様々な思いをし続けている。
これを書きだしたのは昨日の午後、今日は八月十五日、敗戦の記念日、ここではお盆の三日目である。
朝四時半に起きてそこら辺りを散歩し、そろって出始めた稲の穂や、久しぶりの昨夜の驟雨に息づいている月見草を眺め、冷害を心配した今年の稲作も、昨今の好天と日照りで、持ち直したらしいことを喜び、家に上がって自ら入れる一杯のコーヒーを楽しんでいると、うぐいすがしきりに鳴いている。
今ごろのうぐいすは実にうまく、長く、調べ豊かに鳴く。
自らの声の良さを、自ら楽しんでいるように思われる。
ここは鳥が多い。
かっこうも、ほととぎすも鳴く。
つばめが飛び交い、からすが飛び回り、まれにとびの悠々と旋回しているのを見る。
隣のそば畑には、ひわらしいのが群れている。
もし白樺に来る黒頭に白線のある鳥がうぐいすであったなら、私はうぐいすが来て鳴く、とだけ書いて多言を費やさぬであろう。
かくのごとき文をつづらぬであろう。
その名を知らないために、いろいろと姿・形・色・声を書き連ねているのだが、十分にはそれを示し得ないで、もどかしい思いをしている。
もどかしく思いながらも、名を知らないことからくる好奇の心があって、それを詳しく見、また聞いている。
もしうぐいすであったなら、かくのごとく、見、聞くことをしなかったであろう。
名を知らないものに名を与え、それが世に通用するということの不思議さ。
名を与えることは一種天才の英知と言えるかもしれない。
深い愛情と、そこばくのはにかみがあって、初めて名を与え得るのだろう。
ここには野草が多く、その花の色は標高千メートルの紫外線のためか、実に美しい。
ききょう・はぎ・きすげ・つりふねそう・ふじばかま・おみなえし・なでしこ・つゆくさ・たで・たけにぐさ。
うまごやしまで美しい。
それぞれの草花に、それぞれの名を与えたのはだれだろう。
その名を言った初めの人はどういう人だろう。
ききょう・はぎ、その名は今や牢乎として動かし難い。
田の土手に咲く、まんじゅしゃげに似た赤い花、すっと茎だけ伸びてその上に、にぎやかだが多少毒々しい色の花を付けるあれを、子供のときの私たちはガンジと呼んでいた。
ここへ来てそれを見付け、その名を土地の人に聞くと、この辺ではガンズラと言うが、と自信なさそうに言った。
この花の名はまだ納まらない、不安定だな、と私は思った。
人は、美しいと言えば美しくないことはないが、毒々しいと言えば毒々しいあの花に対する感情が不確かで、そのために、しっかりした名を与えかねているのかもしれない。
月見草に葉や茎はそっくりだが、花は小さく、そっけないのがある。
土地の人はそれを星見草と言っている。
月見草が大待宵草ならば、これは小待宵草かもしれぬが、星身草は理が勝っていてなじめない。
ここはまた山の美しい所。
富士・鳳凰・甲斐駒・入笠・茅ヶ岳・権現・赤岳・編笠、すべて動かし難い。
その名がその山容を示し、山容はその名に満足している。
釜無の渓谷、これも動かし難い。
名に歴史があり、生活があり、祖霊さえこもっているようにみえる。
安定した名を持つ山水に囲まれ、動かし難い名と実とを持っている所、それがふるさとというものであろう。
一つの山、一つの森、一つの川、その各が一つ一つの名を持って、安定している。
ききょう・はぎも動かし難い名だが、これは一般名詞、どこへ行ってもその草木があり、その名がある。
山の名、川の名は、その山、この川の名、固有の個性と姿を持って生きているものの名である。
ふるさとは固有の所、個性と歴史のある所、名が実を示している所である。
子供が生まれる。
子に名前を付ける。
難しい務めだが、この務めは果たさねばならぬ義務である。
義務でもあるが愛の行事でもある。
昔は名付け親というのがあった。
私の子供のころまでそれがあった。
名前を付けることによって血はつながらないが親になる。
名を付けられた子は、その名の示す以外のものではない。
名は一つの運命である。
運命を与えるものは神か、親か、その二つよりほかはないだろう。