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日本人の美意识

日本人の美意識美意識(びいしき)とは、人が美しいと感じる心の働き。

美しいと感じる対象は個体差が大きく、時代、地域、社会、集団、環境などによっても大きく異なる。

例えば、整然と並ぶものに美を感じるものもいれば、ランダムに並ぶさまに美を感じるものもいる。

左右対称を美しいと感じるものもいれば非対称に美を見出すものもいる。

無調を心地よいと感じるか否かなども美意識に関連している場合がある。

近代以前の日本には、西洋のような一貫した形での思索の集大成としての「美学」は無い。

西欧では華美な装飾や対称の美しさを核とした人工の美をその美意識の中心においているが、日本人の美意識はむしろ自然と対立せず、寺社、庭園に見るように、自然に溶け込むこと、朽ちては再生するプロセスそのものへの馴染み、死をも敵対するものとしては捉えず、侘(わび)、寂(さび),(いき),(無常)に見るように朽ち果てゆくものへの素朴な同調などが基調になっている。

わび侘(わび、侘びとも)とは、動詞「わぶ」の名詞形で、その意味は、形容詞「わびしい」から容易に理解されるように「立派な状態に対する劣った状態」となる。

転じては「粗末な様子」、あるいは「簡素な様子」を意味している。

もっと端的にいえば「貧しい様子」「貧乏」ということになろうか。

本来は良い概念ではなかったが、禅宗の影響などもあってこれが積極的に評価され、美意識の中にとりこまれていった。

茶の湯では「侘」の中に単に粗末であるというだけでなく質的に(美的に)優れたものであることを求めるようになったのである。

この時期、侘びは茶の湯の代名詞としてまだ認知されていない。

ただし宗二は「侘び数寄」を評価しているから、侘び茶人が茶に親しむ境地も評価され、やがて茶の湯の精神を支える支柱として「侘び」は静かに醸成されていったのである。

侘は茶の湯の中で理論化されたが、「わび茶」という言葉が出来るのも江戸時代である。

江戸時代に多くの茶書によって茶道の根本美意識と位置付けられるようになり、侘を「正直につつしみおごらぬ様」と規定する『紹鴎侘びの文』や、「清浄無垢の仏世界」とする『南方録』などの偽書も生み出された。

さび寂(さび、寂びとも)は動詞「さぶ」の名詞形で、本来は時間の経過によって劣化した様子(経年変化)を意味している。

転じて漢字の「寂」が当てられ、人がいなくなって静かな状態を表すようになった。

同様に金属の表面に現れた「さび」には、漢字の「錆」が当てられている。

英語ではpatina(緑青)の美が類似のものとして挙げられ、緑青などが醸し出す雰囲気についてもpatinaと表現される。

本来は良い概念ではなかったが、『徒然草』などには古くなった冊子を味わい深いと見る記述があり、この頃には古びた様子に美を見出す意識が生まれていたことが確認される。

室町時代には特に俳諧の世界で重要視されるようになり、能楽などにも取り入れられて理論化されてゆく。

さらに松尾芭蕉以降の俳句では中心的な美意識となるが、松尾本人が寂について直接語ったり記した記録は非常に少ないとされる。

俳諧での寂とは、特に、古いもの、老人などに共通する特徴のことで、寺田寅彦によれば、古いものの内側からにじみ出てくるような、外装などに関係しない美しさのことだという。

具体的な例で挙げられるのは、コケの生えた石がある。

誰も動かさない石は、日本の風土の中では表面にコケが生え、緑色になる。

日本人はこれを、石の内部から出てくるものに見立てた。

このように古びた様子に美を見出す態度であるため、骨董趣味と関連が深い。

たとえば、イギリスなどの骨董(アンティーク)とは、異なる点もあるものの、共通する面もあるといえる。

寂はより自然そのものの作用に重点がある一方で、西洋の骨董では歴史面に重点があると考えら.いきいきとは、江戸における美意識(美的観念)のひとつであった。

江戸時代後期に、江戸深川の芸者についていったのがはじまりとされる。

身なりや振る舞いが洗練されていて、格好よいと感じられること。

また、人情に通じていること、遊び方を知っていることなどの意味も含む。

反対語は野暮である。

「いき」には、単純美への志向などの日本の美的観念と共通部分もある。

また、これまで海外では「いき」が日本の美学の代表のように捉えられていることもある。

だが、無常などの宗教観念と関連する[わび],[寂び]は難解とされ、日本人でも説明するのは簡単ではない。

また、現在の日本人の日常生活からは、[わび],[寂び]はむしろ遠のきつつあるともいえる。

これに比較して、「いき」は「さっぱり」「すっきり」などという形容が当てはまるように、より親しみやすく、意味は拡大されているが、現在でも広く日常的に使われる。

九鬼周造『「いき」の構造』(1930)では、「いき」という江戸特有の美意識が初めて哲学的に考察された。

九鬼周造は『「いき」の構造』において、いきを「他の言語に全く同義の語句が見られない」ことから日本独自の美意識として位置付けた。

同書中で九鬼周造はいきには必ず異性に対する「媚態」が根本にあり、異性間の緊張がつねに存在している状態がいきの構成要素である「つやっぽさ」や「色気」を作り出すとしている。

また別の面として、いきの要諦には江戸の人々の道徳的理想が色濃く反映されており、それは「いき」のうちの「意気地」に集約される。

いわゆるやせ我慢と反骨精神にそれが表れており、「宵越しの金を持たぬ」と言う気風と誇りが「いき」であるとされた。

九鬼周造はその著書において端的に「理想主義の生んだ『意気地』によって媚態が霊化されていることが『いき』の特色である。

」と述べている。

無常この「無常」を説明するのに、「刹那無常」(念念無常)と「相続無常」の二つの説明の仕方がある。

刹那無常とは、現象は一刹那一瞬に生滅すると言う姿を指し、相続無常とは、人が死んだり、草木が枯れたり、水が蒸発したりするような生滅の過程の姿を見る場合を指して言うと、説明されている。

この無常については、「諸行無常」として三法印?四法印の筆頭に上げられて、仏教の根本的な考え方であるとされている。

なお大乗仏教では、世間の衆生が「常」であると見るのを、まず否定し「無常であるとしてから、仏や涅槃こそ真実の「常住」であると説いた。

これを常楽我浄と言うが、これについては大乗の大般涅槃経に詳しい。

「祇園精舎の鐘の声」で始まる軍記物語『平家物語』、吉田兼好の随筆『徒然草』、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」で始まる鴨長明の『方丈記』など、仏教的無常観を抜きに日本の中世文学を語ることはできない。

単に「花」と言えばサクラのことであり、今なお日本人が桜を愛してやまないのは、そこに常なき様、すなわち無常を感じるからとされる。

「永遠なるもの」を追求し、そこに美を感じ取る西洋人の姿勢に対し、日本人の多くは移ろいゆくものにこそ美を感じる傾向を根強く持っているとされる。

「無常」「無常観」は、中世以来長い間培ってきた日本人の美意識の特徴の一つと言ってよかろう。

もののあわれ万物物事中から知ての無常だったが、心に感动を引用して、「源氏物語」を代表する文学作品が浓厚な物を反映した色をしていた古くから存在しており、また茶道や日本建築、伝統工芸品などを通して、さまざまな形で実践されてきた。

粋は江戸時代後期の文化文政期の町人の間に生まれた美意識である。

建築において、コンクリート打ち放しを美しいと感じるか否かなどは、近年問いかけられたテーマである。

世阿弥が「秘すれば花」と表現したが、日本人には全体的調和を重んじ自己主張を抑制し隠蔽することによって却って受け手の想像力を刺激し、日本人特有の奥深い表現を成しえるといった側面があるように、その国特有の文化、生活、歴史観などに大きく左右される部分が多い。

あるいは、住んでいる環境?自然から受ける影響も大きいと考えられる。

自然と対峙するか、自然と調和するかによって美意識は大きく異なる。

例えば:日本に居住している建物に茶室はたぐいの最も伝统的なスタイルの特徴のある住宅タイプです。

それを追求する一種の趣向にあっさりして、静寂で製作された伝統の禅の精神である。

ここでは、おぼろの画面と、薄暗いの床の間十分の調整を経て、寂しくな陰翳は永久不変の静かな沈殿物やに包まれがありますから、そこにはこの浮世ながら、またはものではありませんしている。

また、歌論、能楽論、画論などの個別の分野での業績はあるものの、孤立した天才の偉業という色彩が濃く、一枚岩の美学ではない。

これらの美意識は、自然と密接に関連しているが、西洋美学は、近代以前はもっぱら「人間」を中心に据えた「芸術」のために発展した。

そのため、日本の美意識は、西洋美学の視点からは、十分に記述説明することができない。

近代以前の日本の事物について、「芸術」という視点を持つ美学から論じると、学問的文脈を無視した議論となり、慎重を期すべきである。

歴史的に見ると、日本神話の天の岩戸の挿話は、民族の危機が歌舞(うたまい)の芸術によって救われたという意味であり、日本民族の歴史に占める比重の大きさを示唆する。

ここにおける理想的人間は「明(あか)き浄(きよ)き直(なお)きこころ」(宣命)という内面の曇りの無いことに結晶し、罪はみそぎと祓いとによって水の果て、風の果てに消散されるとする宗教的呪術的心情には美と清さとがなんらかの形において一致するという美学的思考が胎生している。

日本において美学的思考が初めて意識的に理論化されたのは、古今和歌集』「仮名序」においてである。

紀貫之は「仮名序」で、和歌は純粋な心の結実であるとした(「やまと歌はひとつ心を種としてよろずの言の葉とぞなれりける」。

そして和歌は天地開闢の時から出来したと述べ、和歌に結集する芸術は、「生きとし生けるもの」の生の表現がヒトにおいてその精華を開花させたものであるとした。

そのころ歌風は、「たけ」、「長高様」(崇高あるいは壮美)、「をかし」(趣向の面白さに由来する美)など、美的カテゴリーの細分化がおこなわれ、「和歌十体」として体系化された。

藤原定家によって重んじられた幽玄様、右心体の趣を禅的思想で深めた正徹は、「いかなる事を幽玄体と申すべきやらむこれぞ幽玄体とてさだかに詞にも心にも思ふ斗りいふべきにはあらぬ也」と、名状しがたい悟入の境地と芸術の奥義とが照応していることを指摘した(『正徹物語』)。

ここから芸道の精神が生まれ、演劇論としては、能の世阿弥の『花鏡』の「動十分心動七分身」(心を十分に動かして身を七分目に動かせ)という余情演技、「せぬが所が面白き」という「為手(して)の秘する所」を中心とする能の幽玄論の「かたちなき姿」を尊重する秘伝につながる。

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