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日本の儒学

日本の儒学日本の儒学は、古いから中国の儒学思想を取り入れたのです。

日本伝来から平安時代末期までの儒学を、日本の早期儒学と言わられます。

日本に伝来した年代と経緯については、定説はないけど、『日本書紀』と『古事記』の記録によれば、応神天皇十六年、西暦285年に、朝鮮の百済の王仁が『論語』と『千字文』を持って日本へ伝来したと記されています。

六世紀に百済からの五経博士が継続的に交替しながら、日本へ渡って、中国の原始儒学を伝えました。

聖徳太子は、中国の儒学思想を日本の政治制度に取り入れた最初の人物です。

聖徳太子が、「憲法十七条」を制定した時に、中国の法家、儒家、墨家及び仏教などいろいろな思想を取り入れたが、儒学思想がもっとも重要な比重を占め、儒学思想が基調となっていると言えるでしょう。

聖徳太子は、また『冠位十二階』を徳、仁、義、礼、智、信(各大小二階を分けている)で命名し、儒学の社会政治思想で政権を強めようとしました。

聖徳太子も、留学生を派遣して、中国の儒学の典籍を勉強しました。

その後、大化の改新を進め、日本で学校を設置して、大学寮などで儒学を中心として教育を行いました。

(1)中国の儒学は、政治にも道徳にも、影響が与えていました。

日本の早期儒学は、政治理念として日本の政治だけに影響を与え、当時の日本人の道徳の実際にはほとんど影響に与えていませんでした。

(2)中国の儒学は、包容性を強く持っており、外に向かって排他性をもっております。

ところが、日本の早期儒学は明らかに共存性を強く占めて、いろいろな論争は終止符を打たれました。

(3)日本の早期儒学は、哲学としての意義が欠けていたと言えます。

中国儒学の発展変化は、日本儒学の発展に影響を及ぼし、鎌倉時代(1184-1333)に、新儒学が日本に伝来しました。

大陸の宋学が、禅学とともに日本伝来されて、次第に広がり、日本の儒学に革新の気運を与えました。

鎌倉、室町時代を通して、宋学はほとんど五山禅僧の手によって、伝承されていました。

大陸の宋学と大きく違っていました。

朱子学側からは、一貫して排仏論が出張されました。

しかし、大陸の禅僧は儒仏一致を力説しました。

日本の禅僧たちは、大陸の禅宗の影響を受けて、儒仏一致の見地から宋学を講じました。

しかし、日本の禅林の宋学提唱は、もとより宋学そのものの普及を目的とする者ではなく、それは宋学を「助道の一つ」と見て結局禅法を揚げる方便にはかならない。

彼らは、ただ儒学と仏教、特に宋学と禅宗の形式の関係に注目して、両者の交渉、融合を論じついに宋学をその本来の姿において、把握するまでに達しませんでした。

当時の宋学は、仏教の禅宗の従属物として存在したのでしょう。

鎌倉時代、禅僧の間に唱えられた宋学は、鎌倉時代の末期から、その影響が宮廷の天皇、公卿、博士家に波及しました。

鎌倉時代では、儒学の新注派は禅林の宋学で、古注派は清原などの諸博士家でした。

江戸時代になって、日本の儒学は禅宗の従属としての状態から抜け出し、独立を始め、いよいよ全盛期を迎えるようになった。

藤原惺窩が先週の世界を脱し、還俗して儒学に転身したことは、日本の儒学の独立の象徴的な出来事と言えよう。

惺窩は、朱子のように、利を形而上的なもの、万事万物か生まれる根源だ見なしたのです。

惺窩は多くの儒学を育成しました。

林羅山はその中の一人でした。

日本朱子学派の真の開祖は、林羅山でした。

林羅山は、朱子の思想を修正し、概念内容を置換して、朱子学の日本的な特色を現しています。

例えば、忠と孝の関係について言えば、中国の伝統的な見方は、「忠」より「孝」を重視するものだが、林羅山は、「孝」より「忠」を重視します。

林羅山以降の日本朱子学派の全体から見れば、それは二つの方向へと分化したと言えます。

一つは、朱子学の唯心論の側面を強化し、朱子学の封建論理学を強調して、「窮理」より「居敬」を重視したことです。

山崎闇斎はその代表人物です。

彼は朱子学と神道との結合に力お注いで、新しい神道流派、「垂加神道」を樹立しました。

また、山崎闇斎は朱子学の大義名分論を強調しました。

崎門の学統は連綿として、明治以降まで継承され、その尊王思想神道思想は天皇制国家を支える理念として国粋主義者によって誉めそやされ、太平洋戦争の時期に、それは最高潮に達したのです。

実は、崎門学派こそ最も典型的な日本朱子学派の停滞と固陋の側面を表したのです。

もう一つは、朱子学の内包する唯物論の要素を強化し、朱子学の認識論の合理部分を強調して、「居敬」より「窮理」を重んじて、「民生日用の学」ないし科学技術に興味を示したことです。

その代表人物は、貝原益軒があります。

かれの「窮理」は、事物の法則性を客観性に探究するという方向に向かっていました。

また、益軒は窮理において、合理性と客観性に徹てしようとし、学問が博学を旨とすることを主張しました。

貝原益軒の博学的な学風はまさに崎門学派の学風と対照的なものです。

一般的には中江藤樹(1608-1648)が日本陽明学の祖だと言われるが、実は室町時代において、日本人はすでに王陽明に接触したことがあります。

江戸時代、日本には、中江藤樹を始め、その門人熊沢蕃山及び三輪執斎、佐藤一斎、大塩中斎らによって、代表される王陽明の思想に共鳴する思想の傾向は確かに存在していたが、中国の陽明学派と違って、これらの学者は全面的に王陽明の思想を受容したのではなかったし、中断されることなくはっきりした伝授関係を持つ学派として形成されませんでした。

江戸時代に日本の陽明学は容易に発展できなかったと言えるでしょう。

中江藤樹は、全面的に陽明の思想に影響されて自己の思想形成したのではなく、陽明学への方向を取りながらも自分の思想の特色を持っていたと言える。

中江藤樹の門人の中で、最も優れた者は、熊沢蕃山と淵岡山です。

蕃山を中心とした人々を事功派と呼び、岡山一派を存養派あるいわ省察派などと称し、前者は必ずしも師説に盲従せず、独自の見識を立てたのに反して、後者は藤樹の思想を忠実に継承しました。

熊沢蕃山が陽明学から学ぼうとする点は、「自反慎独」「心を内に向はしむ」、すなわちいわゆる「進学」に共通の心の内に契機を重んずる点でした。

実は蕃山は朱子学と陽明学との中間的立場でありながらも、幕府の圧迫を被って、困厄の中に世を去らなければなりません。

三輪執斎は、日本陽明学の中興の祖と言われているが、彼の主な業績は1721年における「伝習録」の翻刻に過ぎない。

三輪執斎以降、18世紀末、19世紀初期から、日本の陽明学は再び復興の勢いを表すようになりました。

その代表的な人物は、佐藤一斎は、内心では陽明学を奉じながら、表では朱子学を講じなければならず、「陽朱陰王」と評されました。

彼の思想の影響力は、他の陽明学者より大きいでした。

幕末の思想界に行動主義的な陽明学が広く流行したのは、中央学界にあった一斎の促進的な役割が大きかったからです。

ともかく、日本の陽明学は、時に個人的に深く心酔するものが現れても、社会的に持続してその思想的な影響を及ぼすことはほとんどなく、学派を形成したこともありません。

したがって、日本の陽明学はただ一種の思想的な傾向として存在していたと言えるでしょう。

(1)反体制性:日本の陽明学者は、その全体から見れば、中江藤樹から大塩中斎、吉田松陰まで、彼らの思想は多かれ少なかれ反体制的な批判精神を内包しています。

(2)行動性:日本人に対する陽明学の影響は、内面性への関心の深まりのみではなく、社会的な行動性を強めることにあります。

幕末の陽明学者大塩中斎及び維新期の吉田松陰らは、この行動性の実践者でした。

山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠は日本古学派の三人の代表者です。

彼らの共通点は、復古を唱えました。

ただし、彼らの復古の要求は、決して簡単に中国の伝統的な孔孟の学(原始儒学)に復帰することではなく、古典を持って日本の朱子学を否定して、思想の自由を求め、古典から当代の社会に実践理論として役立つ生活の知恵を求めたのです。

山鹿素行(1622-1685)は日本古学の先駆者と言われます。

彼にの日本思想史上の評価は以下の三つです。

(1)日本古学の立役者(2)日本主義の鼓吹者(3)武士道の提唱者山鹿素行は古学思想の先駆者としてよりも、儒学的な武士道の提唱者として大きな歴史的な意義を持っていると言えよう。

彼は、「死の覚悟」の武士道から「道の覚悟」の武士道への転換を完成した思想家です。

伊藤仁斎(1627-1705)は文献学の方法で朱子学派のよりどころである『大学』と『中庸』の正統性を否定し、『論語』を「最上至極宇宙第一の書」として推尊して、『孟子』を『論語』の不可欠の柱脚としました。

彼は、人の情欲を敵とする朱子と王陽明の「窮天理、滅人欲」論を批判しました。

荻生徂徠(1666-1728)は宋の文学から脱却して「古文辞」を提唱しました。

16世紀の中国の「古文辞」運動は、強烈な古典主義の文学の主張でした。

徂徠はこの主張を儒学古典の解釈に取り入れ、儒学に応用しました。

日本思想史上における徂徠学の位置については日本学者の評価は相当に高いです。

彼の思想は、政治と道徳、公的領域と私的領域との連続性を断ち切って、政治、公的領域の優位を思想的に確立しながら、私的、内面的世界の自立性をも承認して、近代的精神としての資格をもちます。

徂徠学は、近代的制度観への道を切り開いたとされます。

四、後期の儒学(明治維新から今まで)明治維新の後、文明開化が唱えられ、仏教、神道、儒学などの封建文化が批判され、一時、儒学が零落されました。

しかし、自由民権運動の迅速な発展に恐怖を感じた明治政府は再び儒学思想を復活しました。

1890年に、『教育勅語』が公布され、その公布によって、儒学道徳を骨幹とする国民道徳方針を確立しました。

1945年8月の日本の敗戦まで、『教育勅語』は日本の最も基本的な経典としての役割を果たしました。

日本の軍国主義の膨張の過程では、儒学が悪用されました。

儒学は日本国内では、その徳目を重要な内容とした「武士道」が、まず、「軍人精神」として新しい形で再生され、さらに、国民道徳として宣揚されました。

そして、国外に向けては、「王道楽土」の建設というスローガンで、中国ないしアジア諸国への侵略のイデオロギー用具として用いられたのです。

戦後になって、戦前の儒学道徳教育を学校の道徳ないし国民教化の根本方針とした政策を放棄しました。

現代の日本では、思想体系としての儒学は、ただ人文科学研究対象として、中国思想史あるいは日本思想史の著作が論述し評価する内容のみになっています。

しかし、それは日本の現代生活で儒学が影響力を全部失ったことを意味しません。

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