当前位置:文档之家› 从寿司看日本文化日语版

从寿司看日本文化日语版

毕业论文寿司から見る日本文化张丽梅(2006040118)专业名称日语申请学士学位所属学科日语语言文学指导教师姓名樊丽丽职称教授2010年 3 月26 日摘要日本文化几乎就是世界文化的大熔炉,既重视传统又善于创新。

饮食文化也是文化中相当重要的一部分,在反映日本饮食文化的众多食物中最具代表性的便是寿司,本文就是从细处着手,从日本饮食中最具代表性的寿司谈起,逐渐深入的分析日本食文化的特点,进而得出日本博大精深文化的优点。

随着饮食业的快速发展,食文化也发生了质的变化,但是这种变化更加突出的体现了日本人注重创新的精神。

在高效率快节奏的日本社会中,寿司仍然受到许多人的青睐,从小小的寿司中,反映出日本饮食文化的许多优点,这是值得中国人乃至世界人今后学习和借鉴的。

关键词:日本文化;传统与创新;日本食文化;寿司I要旨現代の日本は様々な点で、やはり男性を中心とした社会である。

女性は現代も脇役の立場に置かれて、男女平等の問題は日本社会が直面している重大な課題の一つである。

同時に「平等」は人が生きていく上で、最も重要な概念の一つでのある。

ここでは「法の下の男女平等」、「家庭での男女の役割の変化」と女性の社会進出、現代日本の職場での男女平等の問題が相互に関連しているかということについて分析してみたい。

日本の男女平等観も経済の発展にしたがってわずかずつ変化している。

女性の平等を求める動きや女性自身の努力と共に日本の女性の社会的地位も大きく変化してきた。

しかし、その変化も現実には十分な男女平等を形成したとは言えない。

日本女性の現代社会生活の中での役割はやはり主として脇役をつとめることである。

今後も日本女性の努力と自覚がもっと期待されている。

キーワード:男女社会の地位;男女平等;女性の地位と役割;法の条項II目次摘要 (I)要旨 (II)1. 始めに (1)2. 法の下の男女平等 (1)2.1戦前戦後の女性の地位 (1)2.2大日本帝国憲法(1)と日本国憲法 (4)2.3「男女雇用機会均等法」 (5)3. 家庭内の男女の役割の変化 (5)4. 女性の社会進出 (7)4.1戦後強くなったのは女性と靴下 (7)4.2職業による男女平等 (7)5. 終わりに (8)2.3.1 Elements that fasten globalization (9)参考文献 (10)謝辞 (11)III1. 始めに平等というのは人間として生きていくうえで不可欠な条件である。

現代社会では平等は大きく進んだというものの、まだまだ本物の平等が実現したとは言えない。

「男が女の方よりも強い」という概念は取り払わなければならない時代になっている。

たとえ法律で決められても男女間の溝が深まってしまうこともあり、男女平等についても一人一人が考えを改めなければならない。

現在、日本のあらゆるところで男女平等という言葉が使われている。

男女平等の教育、男女平等の雇用等、言葉で表現してみると様々な男女平等がある。

そして昔に比べると今は男性が家事をしたり、女子が仕事に就いて働く家庭も着実に増えている。

しかし一方では、日本は他国に比べるとまだまだ男女平等について遅れている部分もあり、この点が現代日本の今後の大きな課題になるだろう。

ここでは、日本のこうした現状に即して、法の下の男女平等、家庭での男女の役割の変化と、女性の社会進出、現代日本の職場での男女平等の状態がどのように関連しているかということについて分析を進めていきたい。

経済発展に従って日本の男女平等観もわずかずつ変化を遂げてきた。

しかし平等観の変化も現実にはなかなか男女平等と結びついていない。

日本の女性の現代の社会生活の中での役割は、やはりまだ脇役をつとめる階段にとどまっている。

2. 法の下の男女平等2.1戦前戦後の女性の地位ここでは女性の社会進出と関連させて、戦前戦後の女性の地位の変化についてたどってみたい。

戦前の女性は、ある意味で現代女性よりよく働いていた。

戦前はほとんどが農民であったため大部分の女性は農家の娘であり、農婦であり、農作業に従事していたからである。

農業は労働集約的産業なので女性も男性同様の大きな働き手で1あった。

しかし働いていたと言ってもそれは勿論、無償労働であった。

では、女性の本格的な賃金労働はいつ頃始まったかというと、それは明治政府が殖産興業の政策を始めた時である。

1902年の「工場通覧」によると製糸業では全工員のうち94%が女性であり,紡績業では79.3%が女性であった。

これらの分野で働いていた女性は「女工哀史」でも知られているように、過酷な労働を強いられていた。

賃金の面でも紡績業の場合には1891年で男性100に対し女性38でその格差は大きいものであった。

この背景には家族制度下の性別分分業規範が強く働いていたと考えられる。

家父長制(5)の名の下でまだ家庭を持っていない未婚の若者が短期労働力として家計の補助を目的に、口減らしや出稼ぎとして働きに出ていたというのが実情であった。

1910年代以降になると,都市を中心に「職業婦人」と呼ばれる人たちが出現する。

第一次大戦後の好況期を迎え資本主義の仕組みが確立したためである。

企業に顧われて働く人が増加し、サラリーマン家庭のいわゆる中流階級の女性も職業を持つようになった。

1920年の東京の女性で仕事に就いている人は13万7373人で、女性全体の13.7%であった。

このことは注目すべき点である。

その中の大多数は知的職業である教師や医師、事務員等と技術的職業である看護婦、タイピスト、交換手等といった職業に分けられる。

これらの職業は、それなりの経験を必要とするものが大部分で、今でいうパートに当たるものはまだなかったが、女性が外で働くことに対する世間の風当たりは冷たく、また家の仕事を家族や女中に任せていた点が現代との相違点でもある。

ただ女性がこのように働き始めたことは現代に繋がる大きな前進とも考えられる。

その後、昭和恐慌等による不況の際には一時的に現代女性の就業率は低下したが、1931年の満州事変により日本が長期戦争体制に入ると、女性は男性の労働力を補うために製造業などにも動員され就業率は一気に上昇した。

しかし、終戦後には男性の職場確保が優先され、再び女性の就業率は低下した。

このように、女性の就業の実態は社会全体の景気に合わせてかなり流動的なものであった。

そして戦後1950年代の半ばから1970年代の半ばの第一次、第二次オイルショックまでの間はちょうど日本経済の高度成長期にあたる。

第一次産業(1)と第二次産業、(2)の就業者数は逆転し、第二次産業でも就業者の比率は繊維から鉄鋼、機械産業2へと移った。

この高度成長期は女性の生活スタイルや労働力形態が急激に変貌した時期でもあった。

まず専業主婦が増加したことである。

夫は外で働き収入を得て、妻は家事労働に専念するという性役割分担が確立された。

またこの時期は女性の就職率が低下した時期でもあった。

高度成長期以降80年代半ばまでの時期には、それまで低下し続けていた女性の就業率が上昇に転じた。

その要因としては、第三次産業(3)の拡大に伴う産業構造の変化が最も大きな要因としてあげられる。

サービス業の割合が増加し、時間的に仕事の繁閑が生じやすくなり忙しい時間帯に女性を登用する企業が多くなったからである。

また高度成長の時期も終わりを告げ、経済成長率が低下するにつれて、それまでの日本型終身雇用や、年功賃金で可能であった住宅ローンの返済も夫の収入だけでは難しくなり始めた。

また教育熱の高まりによる教育費用の増加に対応するためにも妻が働けなければ家計が成り立たない家庭が増えてきたことや、電化製品の普及による家事労働の軽減なども女性の就職率の上昇の大きな背景として考えられる。

企業の雇用ニーズと家計の事情がぴったりと一致したわけである。

1925年の国際婦人年を期にがフェミニズム運動(4)広がり、女性が働くことに対する社会の認識が変わり始めたのもこの時期である。

朝日新聞のアンケート調査によると「男は仕事、女は家庭」に賛成する人は1972年では83%、1980年には72%、1985年になると60%というように着々と意識の変化が広がりつつあることが数字からも読み取れる。

女性の間でも性差別に対する意識や、雇用において性差別があるのではないかという問題意識が生まれてきたのもこの時期である。

以上、資料をもとに述べてきたように、歴史的な背景や事情はそれぞれ異となっているが、日本の社会では戦前から戦後にかけて女性の就業率という点から見れば、女性の社会進出は確実に広がりつつある。

それと同時に、女性に対する性差別の意識も変化してきている。

しかし、現代日本では、女性が社会の脇役の立場に置かれているという事情は、まだ大きく変化したとは言えない。

32.2大日本帝国憲法(1)と日本国憲法大日本帝国憲法の中の民法の規定によって、戦前の女性は家父長制(2)のもとでは法律的には無能力者として扱われ、参政権をふくむ、いっさいの権利を認められていなかった。

女性は愛する夫や息子を戦場に送りたくない、とどんなに願っていても、その事を声に出すことすら許されず、銃後の守り手として戦争に協力させられてきた。

戦争を通じて、日本の女性は加害国の女性としての消し去ることのできない思いと同時に、原爆の被爆国の人間としても戦争の悲惨さを経験した。

戦争体験から生まれた「二度と戦争は許さない」という平和の願いから、戦後の女性運動は出発したのである。

多大な犠牲を強いた戦争の反省の上に立って、二度と同じあやまちをくり返さないために戦争放棄、主権在民、基本的人権などを明記して生まれたのが新憲法である。

日本国憲法の中で、始めて法の下での男女平等の権利と参政権を得た女性は、戦後の混乱した社会の中で暮らしや権利を守るための運動に取り組み、その結果、多くの女性団体や労働組合婦人部などが次つぎと誕生した。

そして、戦争放棄を明記した日本国憲法第9条とともに、女性の社会進出や男女平等を求める動きの大きな支えとなったのが、「個人の尊重と平等の原則」をうたった憲法第24条である。

多数の女性は、「伝統的役割分担の廃止」「差別的な法律や偏見の見直し」を求めて活発に行動した。

1975年国際婦人年をきっかけに、「国際婦人年連絡会」が多くの女性団体や労働組合婦人部などで誕生した。

「男女雇用機会均等法」や「育児休業法」も成立し、高校家庭科の共修も実施され、1999年の「男女共同参画社会基本法」の制定をきっかけに、男女平等が具体的な形をもって社会に浸透し始めた。

戦後、制定され新憲法(日本国憲法)では、人間としての女性の地位や権利について明確に規定された。

相关主题