中日同形異義語についての分析周娜娜目次要旨キーワードはじめに中日同形異義語の比較基準決定Ⅰ. 語義についての分析Ⅰ.1 語義の虚実Ⅰ.2 ニュアンスの違いⅠ.3 語義の範囲Ⅰ.4 語義の相違Ⅱ. 用法についての分析Ⅱ.1 組み合わせの違いⅡ.2 使い方の違いⅡ.3 言語習慣の違いⅢ品詞についての分析Ⅳ色彩についての分析Ⅳ.1 文体の違いⅣ.2 褒貶色彩の違いⅣ.3 語感の強弱の違いⅣ.4 男女用語の違い終わりに参考文献要旨日本の漢字は中国から伝わったものであるから、当然中国語との繋がりが深い、しかし、そのつながりの深さは中国人が日本語を学習するのに便利さをもたらすと同時に、不便さも生じさせている。
そこで、中日両国の漢字を対比することによって、そうした言語学習の上での便利さ、不便さを確認したい。
中国語を母語として日本語を学習する人を対象に、中日同形語の意味及び用法上の微妙な差異を整理すると、まず、語義、用法、品詞と色彩の四つの面に要約でき、それはさらにいくつかのポイントに細分できる。
この視点から中日両国語の同形異義語を比較し、中国人の日本語学習者に同形異義語を正しく使ってもらいたい。
その理解をいっそう深めたら、効率よく、日本語らしい日本語、違和感のない日本語が習得できるようになる。
キーワード:語義、、組み合わせ、文体、語感、男女用語はじめに中国人、日本語学習者が常に、自分の持っている中国語の漢字知識に基づいて、日本語の漢語語彙を理解しようとし、使おうとしているが、中日両国の漢字の中に字体が同じでも、意味が多少異なっているか,或いは全然違いと言う漢字も少なくない。
例えば、「中国人は映画館で喧嘩する」という意味を、日本人は「中国人は映画館で言い争いをする」と思う。
また、「娘」という字を、中国人は「お母さん」という意味に勘違いする。
ある中国の留学生は初めて、日本へ行ったとき、町で「男湯」「女湯」と書かれた建物絵を見つけた。
彼は、日本ではお湯を飲むのに男性と女性と分けられているかと思って、「じゃ、今度は女性のお湯を味わってみよう」と笑い話がある。
こうしたケースは、同じ漢字を使い両国間であることから起こった混乱である。
このような実態は実は両国間の言葉の学習やコミュニケーションに多大の不便さをもたらしている。
このような問題を解決するために、今まで王承云という学者は「同形異義語における中国語と日本語の対照研究―中国語教育の視点から」(人文科教育研究251998年pp.143-152)という作品の中で中国語と日本語の比較基準を次のように決めた。
a.完全に意味の違う場合b.同じ意味を持つが,中国語にはほかの意味がある場合C.同じ意味を持つが,日本語にはほかの意味がある場合d.同じ意味を持つが,それぞれにほかの意味がある場合そのほかに蔡利妮も「小议日汉同形异义词」 (湖南城市学院外语系,湖南益阳413049 第26卷第4期2005年7月湖南城市学院学报)という作品の中で以上のように四つに分けている焦丽珍(忻州师范学院学报第21卷第6期 2005年12月)という雑誌の中で「日本語の漢字に関する一考察」という作品の中で“中日そういっている、中日両国間の同形意義の漢字は、大体2種類に分けられる。
一つは意味が全然違うもの、例えば、「娘、勉強、我慢、怪我」など。
もう一種類は同じような意味を持つが、また違う意味を持つもので、次のように分けられる。
(1)中国で一種の意味しか持たないが、日本で二種以上の意味を持つもの。
「試験、助手、大家」(2)日本で一種の意味しか持たないが、中国で二種以上の意味を持つもの「腐食、出口」など”と書いているそのような分け方は確かに中国人が日本語の学習にある程度役に立ったけど、問題は完全に解決されたとはまだ言えない。
例えば、“科学研究上的重大成果终于诞生了。
"という中国語を日本語に訳すとき、たくさんの人は“化学研究上の重大な成果がついに誕生した”と翻訳する。
“遗传学将给工业、医学以及农业的发展带来深刻的影响。
”という言葉を“遺伝学は工業、医学および農業の発展に深刻な影響を及ばすことになる”という日本語に訳すのも普通だ、以上の二つの例文はただ意味によっての分け方で考えれば、間違っていないと思う、しかし、実は間違っている、なぜなら、“重大、深刻”は同じ漢字の中国語と比べると、意味は同じだが、褒貶色彩は全然違い。
このような問題を起こさないように、西安外国語学院の楊暁鐘と曹珺紅は「中日同形漢語についてー中日「同形同義漢語」についての比較―」の文章で次のように四つ分けている。
Ⅰ. 語義Ⅰ.1 語義の虚実Ⅰ.2 ニュアンスの違いⅠ.3 語義の範囲Ⅰ.4 語義の相違Ⅱ.用法Ⅱ.1 組み合わせⅡ.2 使い方Ⅱ.3 言語習慣Ⅲ品詞Ⅳ色彩Ⅳ.1 文体の違いⅣ.2 褒貶色彩の違いⅣ.3 語感の強弱の違いこのわけ方で中日同形異義語に見られる千差万別な言語現象をすべて統括できるとは思わないが、かなりの部分を統括でき、上のただ意味でのわけ方よりいいと思う、きっと日本語の学習にもっと大きな役を立つ。
以下、いくつかの部分に分けて、日常生活の中に中日漢語の誤用を犯いやすい例を比べながら、典型的な例文の説明などを通して、このわけ方のメリットを検討してゆきたい。
本文Ⅰ語義Ⅰ.1語義の虚実の違い抽象的な事柄に使われるものを「虚」とし、具象的な事柄に使われるものを「実」というように、言葉を分けて考える。
次の例を挙げて説明をする例①〔把握/把握〕把握:⑴にぎりしめること。
手中におさめること。
⑵しっかりと理解すること。
ただ“⑴にぎりしめること。
手中におさめること。
”という意味は中国語の“把握”と同じだが、中国語の“把握”には、物事に対する自信という意味もある。
以前の分け方によって、把握は“d.同じ意味を持つが,それぞれにほかの意味がある場合”に属される、しかし、実は日常生活では日本語の“⑴にぎりしめること。
手中におさめること。
”という意味の“把握”と中国語の同じ意味の“把握”とは語義の虚実が違い。
•司机把握着方向盘/運転手はハンドルを握っている。
•把握一切机会/あらゆる機会をとらえる。
•这件工作 , 我可以试试 , 可没把握/この仕事は私がやってみてもよいが , あまり自信はない。
•把握事情的本質/事の本質を把握する。
·実態を把握する∕掌握实情中国語の“把握”は抽象的にも、具象的にも使えるが、日本語の「把握」は抽象的な事柄にしか使われない。
Ⅰ.2ニュアンスの違い広い意味では、中日同形異議語はどれもニュアンスが違うといえるかもしれないが、ここでは、特に意味的に微妙にニュアンスが違っていて、しかも、ほかの項目に入れがたいものを取り上げて考えることにした。
例②〔高度/高度〕中国語の“高度”は“高度重视”“高度警戒”“高度赞扬”“高度集中”“高度紧张”などのように、よく連用修飾語として感情、心情に関する語を修飾して、その程度が高いことを言う。
これに対して、日本語の“高度”は(たとえ「に」をつけても)連用修飾語として感情、心情に関する語を修飾することはないし、また、「高度」のなかにすでに高い水準、高いレベルというニュアンスが含まれていて、「高度な会話」、「高度な話術」「高度な演技」「高度な技術」「高度な知識」「高度な問題」などということができる。
つまり、日本語と違って、中国語の“高度”には物事の「高いレベル」という意味合いがなく、どちらかというと人間のある心理状態の「程度が強い」のを形容するのに使われるのである。
以下にニュアンスの違い誤用を挙げて説明する○(縁談についての話)她要求太高了。
/彼女は要求が高すぎます。
→彼女は理想が高すぎます。
○(来客に対して)有什么要求请告诉我们。
/何かご要求がおありでしたら、どうぞおっしゃってください。
→何かご要望がおありでしたら、どうぞおっしゃってください。
○(学習問題)困难吗?/勉強に何か困難がありますか。
→勉強に何か困ってることがありますか。
Ⅰ.3語義の範囲の違いたとえば“爱情”「愛情」という同形語についてみると、日本語では、「母校への愛情」とか「仕事に愛情を持つ」というような言い方をするが、中国語では、“对母校的爱情”“对工作持有爱情”というと、どうも滑稽に聞こえ、中国語らしくない。
なぜかというと、中国語の“爱情”はさまざまな「愛情」の中でも、特に異性間の「愛情」だけを指しているからである、だから、“母校”や、“工作”などには使えないわけだ。
これは「広義」と「狭義」のちがいで、語義の範囲が違うのである。
このように、日中同形語のあいだで。
語義の範囲が違うものはかなりある。
例⑤〔新鮮/新鲜〕日中両国語では、語義の範囲が違い、意味が重なる部分と重ならない部分がある。
意味が重なる部分としては、魚や肉、野菜、果物など。
食品が新しさ、鮮度を保っていることを表す場合と、空気などがフレッシュでうまいことを示す場合である。
たとえば、“新鲜水果”(新鮮な果物)“新鲜蔬菜”(新鮮な野菜)“新鲜鱼”(新鮮な魚)“新鲜鸡蛋”(新鮮なたまご)“新鲜空气”(新鮮な空気)というように、同じように使われる。
日中両国語で意味が重ならない部分はつぎの通りである。
中国語の“新鲜”には、珍しいという意味があり、“这已经不是什么新鲜事了”(こういうことはもう何も珍しいことではない)“电视机在我们村已经不是什么新鲜东西了”(テレビは、わが村ではもう珍しいものではなくなった)“大家都去看新鲜”(珍しいので、みんな見にきた)“尝新鲜”(珍しいもの、高価なものを食べる/初物を食べる)というように使われるが、日本語の新鮮にはそういう意味や使い方がない。
逆に日本語の「新鮮」は抽象的な物事、特に「作品」や「感覚」「認識」などと結合して、「この作品には新鮮味がある」「この画には新鮮さが欠けている」「新鮮な感覚」「新鮮な喜び」「新鮮な魅力」「新鮮な発想」というように、新しくて生き生きしているさまを表すことができるが、中国語では、このような比喩的な使い方がない?。
例⑥〔明朗/明朗〕「明るい」という原義では日中両国語では一致しているが、意味範囲がそれぞれ違う。
中国語の“明朗”は“明朗的月光”“明朗的光”“明朗的天空”“明朗的教室というように、光が十分で明るいという意味に使われるが、日本語の「明朗」には、そういう意味と使い方がない、また、中国語の“明朗”にはただ単に光線が十分で明るいというだけでなく、そのことが好ましいというニュアンスを持っている。
しかし、日本語の「明朗」は上述の中国語の“明朗”と違って、「明朗な月の光」「明朗な光線」、「明朗な空」、「明朗な教室」などとは絶対言わない、そのかわり、性格が明るく朗らかだということ、気持ち、性格が明るくて楽しげだという意味の「明るい」には、日本語で「明朗」がよく使われる。