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戦国大名武将日文百科【佐々成政】

三省堂大辞林
さっさ-なりまさ【佐々成政】
(?-1588)安土桃山時代の武将。

尾張の人。

織田信長に仕えて越中富山を領す。

小牧・長久手の戦いでは豊臣秀吉と戦って敗れ、降伏。

秀吉の九州平定後、肥後に封じられたが、一揆を鎮圧できず、責めを問われて切腹。

ウィキペディア
佐々成政
)』(2010/06/07 03:17 UTC 版)
佐々成政(さっさなりまさ)は、戦国時代・安土桃山時代の武将。

尾張国出身。

父は佐々成宗(盛政とも)。

通称内蔵助(くらのすけ)。

家紋は棕櫚。

馬印は金の三階菅笠。

鷹司孝子(本理院)の外祖父。












生涯
尾張時代
佐々氏は尾張国春日井郡比良城に拠った土豪。

宇多源氏佐々木氏の一族というが明確ではない。

兄に政次、孫介がいたが、相次いで戦死したため、永禄3年(1560年)に家督を継ぎ、比良城主となる。

織田信長に仕え、馬廻から戦功を重ねて頭角を表し、永禄10年(1567年)、黒母衣衆の一員に抜擢された。

元亀元年(1570年)6月の姉川の戦いに先立つ「八相山の退口」では、簗田広正・中条家忠らと共に少数の馬廻衆を率いて殿軍に参加し、鉄砲隊を用いて活躍したとされる(『信長公記』・『当代記』)。

天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは前田利家・野々村正成・福富秀勝・塙直政と共に鉄砲隊を率いた。

府中三人衆時代
天正3年(1575年)9月、織田信長は越前制圧後、柴田勝家を置き北陸方面の軍団長とした。

その与力・目付として成政・前田利家・不破光治の3人(府中三人衆)に越前府
中3万3000石を与え、成政は小丸城を築いて居城とした。

府中三人衆は柴田勝家の与力とはいえ、半ば独立した織田軍の遊撃軍的存在で、石山本願寺攻めや播磨平定、荒木村重征伐などに援軍として駆り出されることが多かった。

越中時代
天正8年(1580年)、神保長住の助勢として対一向一揆・上杉氏の最前線にある越中
国平定に関わる。

同年秋には佐々堤を築いている。

天正9年(1581年)2月、正式に越中半国を与えられ、翌年の長住失脚により一国守護となり、富山城に大規模な改修を
加えて居城とした。

天正10年(1582年)、本能寺の変が起こった時、北陸方面軍は上杉軍の最後の拠点
魚津城を3ヶ月の攻囲の末攻略に成功したばかりであった。

しかし変報が届くと、各将はそれぞれ領地に引き揚げたため上杉軍の反撃に遭い、成政はその防戦で身動きが取れなかった。

上洛した柴田勝家も羽柴秀吉に先を越され、同じように対峙していた毛利氏と和睦して中国大返しを成し遂げた秀吉とは明暗が分かれた。

明智光秀征伐後の清洲会議において、柴田勝家と羽柴秀吉との織田家の実権争いが勃発すると、柴田方につく。

賤ヶ岳の戦いには上杉景勝への備えのため越中を動けず、叔父の佐々平左衛門が率いる兵600の援軍を出すにとどまった。

勝家の敗死後は、前田氏の寝返りや上杉家の圧迫もあり、娘を人質に出して剃髪する事で降伏し、越中一
国を安堵された。

翌天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いが始まると3月頃の書状では秀吉方につく素振りをみせていたものの、夏頃になって徳川家康・織田信雄方に
つき、秀吉方に立った前田利家と敵対して末森城の合戦が起こった。

この時期は越後
の上杉景勝とも敵対していたため二正面作戦を強いられ、苦戦が続いた。

秀吉・家康
らとの間で和議が成立し、進退窮まると、家康に再挙を促すため、厳冬の飛騨山脈(北アルプス)・立山山系を越えて浜松へと踏破するという壮挙を成し遂げた。

世に言う「さ
らさら越え」である。

しかし結局説得は功を奏せず、織田信雄や滝川一益にも説得を行ったが快い返事は得られなかった。

翌天正13年(1585年)、秀吉自ら越中に乗り出し、富山城を10万の大軍で包囲。

成政は織田信雄の仲介により降伏した(富山の役)。

秀吉の裁定により、一命は助けられたものの越中国東部の新川郡を除く全ての領土を没収され、妻子と共に大坂に移住させられ、以後御伽衆として秀吉に仕えた。

肥後時代
天正15年(1587年)の九州の役で功をあげたことを契機に、肥後一国を与えられた。

秀吉は性急な改革を慎むように指示したとも言われる。

病を得ていたとも言われる成政は、早速に太閤検地を行おうとするがそれに反発する国人が一斉蜂起し、これを自力で鎮めることができなかった(肥後国人一揆)。

このため失政の責めを受け、安国寺恵瓊による助命嘆願も効果なく、摂津国尼崎法園寺にて切腹させられた。

享年53(53説が最も有力視されているが、没年は50歳から73歳説まで諸説あり、そこから逆算した生年になっているので、正確な生年は不詳である)。

戒名は成政寺庭月道閑大居士。

辞世の句:「この頃の厄妄想を入れ置きし鉄鉢袋今破るなり」
人物
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∙大の秀吉嫌い、猪突猛進型の猛将として描かれることが多いが、後世に作られた物語などで脚色された影響が大きい。

中世の越中は河川の氾濫による水害に悩まされていたが、成政は僅か数年間の越中統治中に堤防を築き水害を防いだため領民に慕われた。

堤防は済民堤、佐々堤と名付けられ現在もその遺構が残る。

∙その腕を信長に高く買われたことから国持大名までに出世した。

信長の実力主義の恩恵を受けた一人である。

秀吉嫌いは後世の創作もあろうが、織田信雄が降伏した後も家康と共謀して抗戦しようとするなど、織田氏(信長)に対する忠誠心は厚く、秀吉嫌いが事実だったとの印象も見受けられる。

∙城兵の越後への帰還を認める条件で開城した魚津城の兵士を虐殺[要出典]して上杉景勝の恨みを買う、離反した土肥政繁の13歳になる次男を籠城する土肥軍の前で磔刑にする[要出典]など、必要以上に敵を作る部分も認められる。

海音寺潮五郎はこの点を指して「このような残虐な手口に頼るようでは人心掌握に長けた秀吉に対抗するのは無理」と厳しい評価を下している。

但し、人質を処刑することは戦国時代には裏切りの代償としては当然なことであり、(そうでなければ抑止力としての人質の意味がない)これをもって残虐というならば、実子の
処刑を予見し得たにも関わらず、佐々家を離反した政繁こそ残虐であると言えよう。

因みに、「人心掌握に長ける」とされる秀吉は、後に人質であった成政の娘を京都粟田口において処刑している。

一方で魚津城の違約・城兵虐殺の一件は完全に大失敗であり、本能寺の変の後に秀吉と景勝が同盟するという致命的な事態を招いているとの意見もあるが、魚津城攻めの主将は柴田勝家であり、本能寺の変後の秀吉と景勝との同盟に因果関係があるかどうかは不明である。

大の秀吉嫌いで、信長存命時には同じ北陸方面で戦ったことから、秀吉の敵対者として柴田勝家とひとくくりにされることが多いが、一時期、上杉方に奪われた富山城の攻略では大将とは思えぬ取り乱しぶりで勝家と大喧嘩したという記録が前田家の文書に残っており、必ずしも反秀吉という面で親密な関係にあったとは言い難いようだ。

実際、上杉家への備えという建前もあるが、賤ヶ岳の戦いでも僅かな援兵しか派遣していなかったり、本心はともかく、勝家の滅亡後は抗戦する事なくあっさり剃髪し秀吉に降っていることなどから、お互い背後に敵を作りたくないという利害関係上、結んでいたという意見もある。

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