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戦国大名武将日文百科【毛利元就】

三省堂大辞林もうり-もとなり【毛利元就】(1497-1571)戦国時代の武将。

大内義隆が家臣陶晴賢(すえはるかた)に倒されたのち、陶氏を討って周防・長門を支配下に収め、出雲の尼子氏を倒して中国地方一〇か国を制覇。

一族の結束を固めるための三本の矢の教訓が有名。

防府歴史用語辞典毛利元就(もうりもとなり)戦国時代の武将で、安芸[あき]国の吉田を本拠地とします。

一時、大内[おおうち]氏に属していましたが、陶晴賢[すえはるかた]が大内氏の実権をにぎると、大内氏をほろぼしました。

また、尼子[あまこ]氏もほろぼし、勢力を広げていきました。

関連項目防府の文化財「紙本著色毛利元就像」防府の文化財「色々威腹巻兜、大袖、喉輪付」防府の文化財「紅地桐文散錦直垂」防府の文化財「毛利元就詠草連歌」防府の文化財「毛利元就関連資料」▼いま話題のお城育成ゲームwww.cave.co.jp/shirotsuku≪しろつく≫公式サイトはコチラから!PV・CM公開中♪登録無料▼毛利元就ならアマゾンAmazon.co.jp新作、話題作が勢揃い。

全品無料配送実施中(一部を除く)スポンサードサーチ- 広告の掲載について戦国武将覚書毛利元就(もうりもとなり)1497~1571○松寿丸尐輔次郎治部尐輔右馬頭陸奥守◇父:毛利弘元室:吉川国経女、乃美安芸守隆興女、三吉隆亮女兄、及びその子の死により安芸・毛利氏当主となる。

長門・大内氏、出雲・尼子氏の二大勢力に挟まれ苦しむが、巧みな外交で乗り切り、謀略を駆使して両者共打ち倒して安芸の小領主から中国の覇者となる。

さらに九州にも進出し、豊後・大友氏とも度々争った。

一族の団結を図った“三本の矢”の教訓の逸話は有名である。

毛利元春(もうりもとはる)1530~1586→吉川元春毛利元総(もうりもとふさ)1567~1601→小早川秀包毛利元政(もうりもとまさ)1559~1609→天野元政毛利元康(もうりもとやす)1560~1601→末次元康ウィキペディア毛利元就出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(2010/07/03 08:20 UTC 版)この項目では、戦国大名について説明しています。

∙本項の人物の名が由来のテレビ番組については「元就。

」をご覧ください。

∙本項の人物が主人公の大河ドラマについては「毛利元就(NHK大河ドラマ)」をご覧ください。

毛利元就(もうりもとなり)は、室町時代後期から戦国時代にかけての安芸の国人領主・戦国大名。

安芸の小規模な国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、戦国時代最高の名将の一人と後世評される。

用意周到な策略で自軍を勝利へ導く稀代の策略家として名高い。

本姓は大江氏。

家系は大江広元の四男毛利季光を祖とする毛利氏の血筋。

寒河江氏などは一門にあたる。

家紋は一文字三星紋。

安芸国吉田郡山城(現在の広島県安芸高田市吉田町)を本拠とした毛利弘元の次男。

幼名は松寿丸(しょうじゅまる)、通称は尐輔次郎(しょうのじろう)。

∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙生涯家督相続毛利家の家紋。

明応6年(1497年)3月14日、安芸の国人領主毛利弘元と福原氏との間に次男として誕生。

幼名は松寿丸。

出生地は母の実家の鈴尾城(福原城)と言われ、現在は毛利元就誕生の石碑が残っている。

明応9年(1500年)に幕府と大内氏の勢力争いに巻き込まれた父の弘元は隠居を決意。

嫡男の毛利興元に家督を譲ると、松寿丸は父に連れられて多治比猿掛城に移り住む。

翌文亀元年(1501年)には最愛の母が死去し、松寿丸10歳の永正3年(1506年)に、父・弘元が酒毒が原因で死去。

松寿丸はそのまま多治比猿掛城に住むが、家臣の井上元盛によって所領を横領され、城から追い出されてしまう。

松寿丸はその哀れな境遇から「乞食若殿」と貶されていたという。

この困窮した生活を支えたのが養母であった杉大方である。

永正8年(1511年)に元服し、毛利元就を名乗る。

永正13年(1516年)、長兄・興元が急死。

家督は興元の嫡男・幸松丸が継ぐが、幸松丸が幼尐のため、元就は叔父として幸松丸を後見する[1]。

毛利弘元、興元と二代続く当主の急死に、幼い主君を残された家中は動揺する。

毛利家中の動揺をついて、佐東銀山城主・武田元繁が吉川領の有田城へ侵攻。

武田軍の進撃に対し、元就は幸松丸の代理として有田城救援のため出陣する。

元就にとっては毛利家の命運を賭けた初陣であった。

安芸武田氏重鎮であり、猛将として知られていた武田軍先鋒・熊谷元直率いる軍を元就は撃破し、熊谷元直は討死。

有田城攻囲中の武田元繁はその報に接するや怒りに打ち震えた。

一部の押さえの兵を有田城の包囲に残し、ほぼ全力で毛利・吉川連合軍を迎撃し、両軍は激突する。

戦況は数で勝る武田軍の優位で進んでいたが、又打川を渡河していた武田元繁が矢を受けて討死するに至り、武田軍は混乱して壊滅。

安芸武田氏は当主の元繁だけではなく、多くの武将を失い退却する。

この「有田中井手の戦い」は「西国の桶狭間」と呼ばれ、武田氏の衰退と毛利氏の勢力拡大の分水嶺となった。

そしてこの勝利により、安芸国人「毛利元就」の名は、ようやく世間に知られるようになる。

この戦いの後、尼子氏側へ鞍替えした元就は、幸松丸の後見役として安芸国西条の鏡山城攻略戦でも、その智略により戦功を重ね、毛利家中での信望を集めていった。

詳細な時期は不明であるが、この頃に吉川国経の娘(法名「妙玖」)を妻に迎える。

甥の毛利幸松丸が大永3年(1523年)にわずか9歳で死去すると、毛利家の直系男子であり、家督継承有力候補でもあった元就が重臣達の推挙により、吉田郡山城に入城し、27歳で毛利家の家督を継いだ。

この時、元就の継承に不満を持った坂氏・渡辺氏等の有力家臣団の一部が、尼子経久の指示を受けた尼子氏重臣・亀井秀綱支援の下、元就の異母弟・相合元綱を擁して謀反を起こしたが、元就は執政・志道広良らの支援を得て元綱一派を粛清・自刃させるなどして、将来の禍根を絶ち、当主の座を確固たるものとした。

勢力拡大家督相続問題を契機として、元就は尼子経久と次第に敵対関係となり、ついには大永5年(1525年)に尼子氏と手切れして大内義興の傘下となる立場を明確にした。

そして享禄2年(1529年)には、かつて毛利幸松丸の外戚として専権を振るい、尼子氏に通じて相合元綱を擁立しようと画策した高橋興光ら高橋氏一族を討伐。

高橋氏の持つ安芸から石見にかけての広大な領土を手に入れたが、高橋一族討伐の際、元就は高橋氏の人質となっていた長女を殺害された。

一方で、長年の宿敵であった宍戸氏とは関係の修復に腐心し、娘を宍戸隆家に嫁がせて友好関係を築き上げた。

その他、一時大内氏に反乱を起こし窮地に追いやられた天野氏や、安芸武田氏と関係が悪化した熊谷氏とも誼を通じ、安芸国人の盟主としての地位を確保した。

天文2年(1534年)9月23日付けの『御湯殿上日記』(宮中の日誌)に、大内義隆より「大江のなにがし」を応永の先例に倣って官位を授けるように後奈良天皇に申し出があったという記事がある。

これは毛利(大江)元就をその祖先である毛利光房が称光天皇より従五位下右馬頭に任命された故事に倣って同様の任命を行うようにという趣旨であった。

元就は義隆を通じて4,000疋を朝廷に献上する事で变任が実現の運びとなった。

これによって推挙者である大内義隆との関係を強めるとともに、当時は形骸化していたとは言え、官位を得ることによって安芸国内の他の領主に対して朝廷・大内氏双方の後ろ盾があることを示す効果があったと考えられている。

また、同時期には安芸有力国人である吉川氏当主吉川興経から尼子氏との和睦を斡旋されるが、逆に尼子方に断られてしまっている。

天文8年(1539年)、従属関係にあった大内氏が、北九州の宿敵尐弐氏を滅ぼし、大友氏とも和解したため、安芸武田氏の居城佐東銀山城を攻撃。

尼子氏の援兵を武田氏は受けたものの、これにより、城主武田信実は一時若狭へと逃亡している。

後に信実は出雲の尼子氏を頼っている。

天文9年(1540年)には経久の後継者である尼子詮久率いる3万の尼子軍に本拠地・吉田郡山城を攻められるが(吉田郡山城の戦い)、元就は即席の徴集兵も含めてわずか3000の寡兵で籠城して尼子氏を迎え撃った。

家臣の福原氏や友好関係を結んでいた宍戸氏らの協力、そして遅れて到着した大内義隆の援軍・陶隆房の活躍もあって、この戦いに勝利し、安芸国の中心的存在となる。

同年、大内氏とともに尼子氏の支援を受けていた安芸武田氏当主・武田信実の佐東銀山城は落城し、信実は出雲へと逃亡。

安芸武田氏はこれにより滅亡した。

また、安芸武田氏傘下の川内警固衆を組織化し、後の毛利水軍の基礎を築いた。

天文11年(1542年)から天文12年(1543年)にかけて、大内義隆を総大将とした第1次月山富田城の戦いにも、元就は従軍。

しかし吉川興経らの裏切りや、尼子氏の所領奥地に侵入し過ぎたこともあり、補給線と防衛線が寸断され、更には元就自身も4月に富田城塩谷口を攻めるも大敗し、大内軍は敗走する。

この敗走中に元就も死を覚悟するほどの危機にあって渡辺通らが身代わりとして奮戦の末に戦死、窮地を脱して無事に安芸に帰還することができた。

しかし大内・尼子氏の安芸国内における影響力の低下を受けて、常に大大名の顔色を窺う小領主の立場から脱却を考えるようになる。

元就は手始めに天文13年(1544年)に、強力な水軍を擁する竹原小早川氏の養子に三男・徳寿丸を出した。

同年、備後三吉氏へ遠征に出た尼子晴久の兵を撃退すべく、児玉就忠・福原貞俊を派遣するが敗北している。

(布野崩れ)天文16年(1547年)、妻・妙久の実家である吉川家の乗っ取りを企む。

当時吉川経世ら一族や重鎮と、新参の家臣との対立が激しくなっており、家中の統制ができなくなっていた。

元就は、吉川国経の外孫に当たる次男・元春を吉川氏に養子として送り込んだ。

吉川家当主の吉川興経を強制的に隠居させ、興経の隠居後の天文19年(1550年)に、将来の禍根を断つため興経とその一家を殺害。

一方で、先の月山富田城の戦いで当主・小早川正平を失っていた沼田小早川氏の後継問題にも介入した。

当主・小早川繁平が幼尐かつ盲目であったのを利用して家中を分裂させ、後見役の重臣であった田坂全慶を謀殺した上で繁平を出家に追い込み、分家の竹原小早川当主で元就の実子である小早川隆景を後嗣にさせている。

これにより、小早川氏の水軍を手に入れ、また「毛利両川体制」が確立、毛利氏の勢力拡大を支えることになるのである。

これにより安芸・石見に勢力を持つ吉川氏と、安芸・備後・瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏、両家の勢力を取り込み、安芸一国の支配権をほぼ掌中にした。

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