三省堂大辞林
あしかが-よしてる【足利義輝】
(1536-1565)室町幕府一三代将軍(在職1546-1565)。
義晴の子。
三好・松永氏らの勢力が強く、将軍職が形骸化(けいがいか)したことに反発したが、逆に松永久秀らに暗殺された。
戦国武将覚書
足利義輝(あしかがよしてる)1536~1565
○菊幢丸義藤左馬頭参議左中将征夷大将軍
◇父:足利義晴室:近衛稙家女子:足利輝若丸
1546年元服して室町幕府第13代将軍となる。
三好長慶らと対立し、管領細川晴元と共にしばしば近江に逃れる。
その後和解し入京、積極的に御内書を出して大名の同士の調停をする等、将軍家の権力回復を図る。
しかし、傀儡将軍として足利義栄を擁立した松永久秀、三好三人衆らに二条御所を急襲されて、自ら太刀を取って奮戦するが、殺害された。
塚原卜伝に秘伝“一ノ太刀”を授けられた剣豪将軍。
ウィキペディア
足利義輝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(2010/07/04 23:38 UTC 版)
足利義輝(あしかがよしてる)は、戦国時代の室町幕府第13代征夷大将軍(在職:1546年- 1565年)。
父は12代将軍の足利義晴。
なお、10代将軍足利義稙の養子となった阿波公方足利義維は叔父で、その子である14代将軍足利義栄は従弟にあたる。
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生涯
少年期
天文5年(1536年)3月10日、第12代将軍・足利義晴の嫡男として東山南禅寺で生まれる。
誕生直後に外祖父近衛尚通の猶子となる(『後法成寺関白記』天文5年3月11日・4月6日条)。
この頃の幕府では父・義晴と管領・細川晴元が対立し、義晴はそのたびに敗れて近江
坂本に逃れ、それに義輝もたびたび従った。
その後も父とともに京への復帰と近江坂
本・朽木への脱出を繰り返した。
天文15年(1546年)12月、義輝はわずか11歳にして、父から将軍職を譲られる。
このときの将軍就任式は亡命先である近江坂本の日吉神社(現日吉大社)祠官樹下成保
の第で行われ、六角定頼を烏帽子親として元服し、義藤と名乗った。
同17年(1548年)、義晴は細川晴元と和睦して京に戻った。
このとき晴元も義藤の将軍就任を承諾している。
三好長慶との戦い
ところが、晴元の家臣である三好長慶が晴元を裏切って細川氏綱に属し、畿内に一大勢力を築き上げた。
このため、天文18年(1549年)6月、義晴・義藤父子は細川晴元とともに京都を再び追われて近江坂本に逃亡し、常在寺に留まった。
同19年(1550年)5月、義晴が常在寺にて死去。
その後は堅田、翌年に朽木に移った。
天文21年(1552年)1月、細川氏綱を管領にするという条件で三好長慶と和睦し、京に戻った。
将軍とは有名無実で、長慶とその家臣松永久秀の傀儡であった。
翌年(1553年)に細川晴元と協力して長慶との戦いを始めたが、敗れて近江朽木に逃れ、以降5
年間をこの地で過ごした。
なお、亡命中の同23年(1554年)2月12日、名を義輝に改めている。
永禄元年(1558年)5月、六角義賢(承禎)の支援で晴元とともに坂本に移り、京の様子を窺う。
翌月、如意ヶ岳に布陣して三好長逸らの軍と交戦した。
一時期は六角義賢の
支援を受けた足利方が優勢であったが、長慶の弟・三好義賢の反攻を受け、さらに六
角義賢からも支援を打ち切られたために戦況は思うように展開しなかった。
11月、六角義賢の仲介により長慶との間に和議が成立したことに伴って、5年ぶりの入洛が実現し、
幕府政治を再開。
この年の12月28日には、伯父である近衛稙家の娘を正室に迎えている。
長慶はなお権勢を誇り、幕府の御相伴衆に加えられ、さらに修理大夫に推薦さ
れたが、同時に臣下として幕府機構に組み込まれることとなった。
また、長慶はたびた
び暗殺未遂事件に遭遇しているが、義輝の差し金であったとされる。
将軍親政
足利義輝木像(等持院霊光殿所蔵)
義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力している。
伊達晴宗と稙宗(天文17年(1548年))、武田晴信と長尾景虎(永禄元年(1558年))、島津貴久と大友義鎮、毛利元就と尼子晴久(同3年(1560年))、毛利元就と大
友宗麟(同6年(1563年))、上杉輝虎と北条氏政と武田晴信(同7年(1564年))など、大名同士の抗争の調停を頻繁に行ない、将軍の威信を知らしめた。
また懐柔策として、大友義鎮を筑前・豊前守護、毛利隆元を安芸守護に任じ、三好長慶・義興父子と松永
久秀には桐紋使用を許した。
さらに自らの名の「輝」字を偏諱として、毛利輝元・伊達輝宗・上杉輝虎(謙信)などの諸大名や足利一門の足利輝氏などに与えている(前名の「藤」字は細川藤孝(幽斎)や足利藤氏・筒井藤勝(順慶)などに与えられた)。
その政治的手腕は、「天下を治むべき器用有」(『穴太記』)と評された。
このような経緯を経て、次第に諸大名から将軍として認められるようになり、織田信長や上杉謙信などは上洛して拝謁、大友宗麟は鉄砲を献上している。
最期
斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址
永禄元年(1558年)の義輝の帰京以降も長慶の権勢は続いたが、それに反発する畠山高政と六角義賢が畿内で蜂起し、一族の三好義賢が戦死する(久米田の戦い)と、三好氏に衰退の兆しが見え始めた。
こうした中、永禄5年(1562年)長慶と手を結び幕政を壟断していた政所執事の伊勢貞孝が長慶と反目すると、義輝は長慶を支持してこれを更迭し、新しく摂津晴門を政所執事とした。
これに激怒した貞孝は反乱を起こしたが、9月に長慶の手で討たれた。
これによって、将軍の介入すら許さないほどの影響力を保持し続けてきた伊勢氏による政所支配は歴史に幕を閉じ、将軍による政所掌握への道を開いた。
さらに永禄7年(1564年)7月に三好長慶が病死。
政敵が消滅した義輝はこれを好機として、いよいよ幕府権力の復活に向けてさらなる政治活動を行なおうとした。
しかし、長慶の死後に幕政を牛耳ろうと目論んでいた松永久秀と三好三人衆にとっては、そのような義輝は邪魔な存在であったため、久秀と三人衆は足利義稙の養子・足利義維と組み、義輝を排除して、義維の嫡男・足利義栄(義輝の従兄弟)を新将軍の候補として擁立する。
一方で義輝が頼みとする近江六角氏は永禄6年(1563年)の観音寺騒動以降、領国の近江を離れられなくなっていた。
永禄8年(1565年)5月19日、久秀と三好三人衆は主君三好義継(長慶の養嗣子)とともに足利義栄を奉じて謀叛を起こし、二条御所を軍勢を率いて襲撃した。
義輝は奮戦したが衆寡敵せず、最期は寄せ手の兵たちが四方から畳を盾として同時に突きかかり、
殺害された[1]。
享年30(満29歳没)。
この時、摂津晴門の嫡子摂津糸千代丸も一緒に討ち死にした。
また、義輝の生母である慶寿院も殉死している。
「永禄の変」も参照
辞世の句は「五月雨は露か涙か不如帰我が名をあげよ雲の上まで」
墓所・肖像
足利義輝像紙形(土佐光吉筆、京都市立芸術大学芸術資料館蔵)
墓所
法号は光源院融山道圓。
供養塔が山口県山口市の俊龍寺にある。
肖像
∙肖像画
o国立歴史民俗博物館本(直垂姿。
重要文化財)
o真正極楽寺本(歴博本と同図様)
o光源院本(束帯姿)
o益田家本(束帯姿)
他に、源弐(土佐光吉)の写したという頭部の下絵(紙形)が京都市立芸術大学所蔵の土佐家資料の中に現存する。
国立歴史民俗博物館本や真正極楽寺本
は、これを粉本として制作されたと考えられている。
∙木像- 等持院像、鑁阿寺像。