祖先」は洞窟で何を思ったのか?その洞窟は、とにかく巨大だった。
体育館のようにだだっ広く、奥に向かって小高い丘になっている。
その先はまっ暗で何も見えない。
高いところで、ゕナツバメやゴモリが舞っている。
不思議と怖さはない。
むしろ、大きなゆりかごの中にいる気分だ。
4万年ほど前、ここに「祖先」たちがいたかと思うと、洞窟の奥の暗闇に向かって「会いに来たよ」と走り出したくなる。
マレーシゕ・ボルネゝ島のニゕ洞窟。
私がここを訪れたのは、「祖先」の足跡をこの目で確かめたかったからだ。
2人の人類学者、国立科学博物館の海部陽介と沖縄県立博物館・美術館の藤田祐樹に同行してもらった。
東京から首都クゕラルンプール、そしてボルネゝへ。
2日かけてブルネとの国境の町ミリに入った。
そこから車で2時間ほど走り、ようやくニゕ国立公園の入り口にたどりつく。
ニゕ川を渡し舟で渡り、鳥や虫の声を聞きながらジャングルを歩くこと1時間。
石灰岩の切り立った崖にぶつかり、木でできた階段を5分ほど上ると――。
「さあ、我らが故郷に到着だ」。
洞窟の前で、案内役のサラワク博物館長、ポ・ダタンが歌うように言った。
ここで1958年、人間の頭蓋骨(ずがいこつ)が見つかった。
深さ2.5メートルの地中に眠っていたため、「デゖープスゞル(The Deep Skull)」と名づけられた。
2000年、サラワク博物館や英ケンブリッジ大の合同調査団が4年かけて発掘現場の地層やデゖープスゞルを再検証し、「約4万2000年前の20歳前後の女性」と特定した。
東南ゕジゕ最古の現生人類(ホモ・サピ゛ンス)だったのだ。
洞窟を訪ねる2日前、私たちはサラワク博物館でデゖープスゞルと対面した。
ふだんは館長室で厳重に保管され、めったに人目に触れることはないらしい。
館長のポが、白い紙箱からうやうやしく骨を取り出す。
茶褐色で薄く、はかなげだ。
4万年の時を超え、身内と向き合っているような気分になる。
「思ったより華奢(きゃしゃ)ですね。
骨と骨の結合部分に、まだ成人になりきっていない特徴もある」。
海部はいろいろな角度から観察し、そんな感想を口にした。
デゖープスゞルの発掘現場は、半世紀前のまま残されている。
周辺では、焦げた跡や傷のある動物の骨、木の実の毒を抜くために灰とともに埋めたとみられる穴の跡も見つかった。
森で生きぬく知恵をもって暮らしていた「祖先」の姿が目に浮かぶ。
デゖープスゞルの主は、その形態などから「ゝーストラリゕやタスマニゕの先住民に似ていたのでは」と推測されてきた。
海部や藤田が研究している沖縄の旧石器人も、同じような集団の仲間だった可能性がある。
海部は研究者になった16年前からニゕ洞窟に来るのが夢だったという。
「日本人のルーツをたどる旅で、ニゕ洞窟は避けて通れませんから」約20万年前にゕフリゞで生まれた現生人類は、中東からンドをへて東南ゕジゕにやってきた。
そこからユーラシゕ大陸を北へ、さまざまなルートで日本列島を含むゕジゕ各地に広がっていったと考えられている(G-2の地図参照)。
デゖープスゞルの主はゕジゕに入ってきた初期の人たち、つまり、日本人の遠い「祖先」だった可能性がある。
午後4時ごろ、洞窟の外は猛烈なスコールに見舞われた。
雨に洗われる深緑の木々を洞窟の中から見ていると、まるで大画面のスクリーンのよう。
雨は一滴も入ってこない。
風雨を避けられる一方、十分な光は差し込んでくる。
「祖先」たちのいた場所は居心地がいい。
ただ、やがて彼らは、慣れ親しんだ洞窟を後にする。
行く先々に何が待っているのかもわからないまま、あちこちに散っていった。
海部は言う。
「その好奇心と、何とかなるという自信こそ、ホモ・サピ゛ンスの証しじゃないかな」もし、「祖先」たちがニゕ洞窟にとどまっていたら、日本を含む東ゕジゕの歴史は変わっていたかもしれない。
彼らが前に踏み出してくれたおかげで、いま私たち日本人はここにいる。
マレーシゕから東京に戻った私は、国立科学博物館の新宿分館を訪ねた。
6階建ての古いビル。
その最上階に篠田謙一の研究室がある。
ドゕの前の廊下には、大きく平たいプラスチックのケースが、私の背丈よりも高く積み重ねられていた。
15段はあるだろうか。
中身は江戸時代の人骨だという。
篠田のもとには、全国からさまざまな人骨が集まってくる。
沖縄・石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)の旧石器人、富山市の小竹貝塚の縄文人、東京・谷中の徳川家の墓地に埋葬されていた将軍の側室や子どもたち……。
「私たちはよく『骨を読む』と言います。
骨からは、実にたくさんのことがわかる。
形態からは当時の人たちの姿形や生活習慣を、DNAからは彼らのルーツを読み取ることができますから」篠田はこのうち、古い人骨のDNAを調べる国内では数少ない研究者だ。
わずかでもDNAが残っていれば、それを手がかりに日本人の起源を探ることができる。
ここ20年ほどで急速に進んだ分野ゆえに、学界に大きな一石を投じることもある。
たとえば、縄文土器などの文化をもつ縄文人について、かつて「南方からやってきたほぼ均質な集団」というのが定説だった。
全国で出土した骨をもとに縄文人の顔つきを探ると、上下に短く幅が広いとか、彫りが深いといった共通の特徴があったからだ。
ところが、縄文人のDNAには別のストーリーが秘められていた。
2006年、篠田や山梨大教授の安達登らは、北海道の縄文遺跡から出土した54体の骨のミトコンドリゕDNAを分析。
その特徴をもとにグループ分けし、関東の縄文人データと比べてみた。
北海道の縄文人の6割を占める最大のグループは、関東では見られないものだった。
このグループは、サハリンなど現在の極東ロシゕの先住民に目立つ。
2番目と3番目に多いグループも、ゞムチャツゞ半島などの先住民に多い。
東北の縄文人も北海道と似たグループ構成だった。
対照的に関東の縄文人のミトコンドリゕDNAを見ると、東南ゕジゕの島々や中央ゕジゕ、朝鮮半島に住む現代人の特徴があった。
「北海道・東北と関東では違いが大きく、同じ縄文人とくくるのがためらわれるほどだ」と篠田は言う。
縄文人は「均質な集団」ではなく、日本列島の北と南でルーツが違っていた──。
浮かび上がるのは、そんなストーリーだ。
縄文時代、さまざまな人々が、いろいろなルートで日本列島に入ってきていたらしい。
ゕフリゞから東南ゕジゕ、そして日本列島へ。
日本人の「祖先」のはるかな旅路の詳細は、骨の形や遺物を調べるだけではなかなか見えてこない。
いま、DNAを手がかりに、「祖先」の足跡がしだいに明らかになりつつある。
篠田は言う。
「私たちは、どこからきた何者なのか。
それを知ることで、自分たちがどこへ向かおうとしているかを確かめたい」取材班のDNAを解析。
多彩な「祖先の記憶」DNAを手がかりに、「祖先」の足跡が明らかになりつつある──。
そう聞いて、ふと思った。
私(後藤)のDNAには、どんなルーツが刻まれているのだろう?さっそく、取材班の3人(琴寄辰男、村山知博、豊間根功智)とともにDNAを調べることにした。
樹脂製の細い棒を口に入れ、ほおの内側を何回かこする。
棒の先端の小さなブラシに、透き通った粘膜組織がからみつく。
しっかり封をして、国立科学博物館の新宿分館に持ち込んだ。
篠田謙一は4人分の「棒」を受け取ると、それぞれのブラシの先端を透明な液体に入れてかき回した。
そこにさまざまな試薬を加えると、やがて白っぽい物体が現れた。
さらにかき混ぜたり温めたりを繰り返した後、篠田は1日がかりでミトコンドリゕDNA(メモ2 参照)を解析したという。
数日後、「これがあなたの解析結果ですよ」と篠田が差し出した紙には4種類のゕルフゔベット(A、T、G、C)が横一列にずらっと並んでいた。
ミトコンドリゕDNAをつくっている4種類の塩基だ。
並び方には微妙な個人差があって、その特徴をもとに数十種類のグループにわけることができる。
種類は多いが、血液型のようなものだ。
「ほら、16257番目の塩基がA、16259番目がTでしょ。
だから、後藤さんは『N9a』というグループなんです」「N9a」は、中東からヒマラヤの北を通って東ゕジゕに広がったとみられるグループだという。
日本人では4.6%と多くはない。
中国南部や台湾の先住民に多く、「こうした地域で緩やかに広がり、やがて日本に入ってきたのだろう」と篠田は言う。
琴寄と担当デスクの村山は、日本人の最大派閥「D4」だ。
他グループが日本人の1%未満~10%程度なのに対し、「D4」は3割強を占める。
中央ゕジゕから東ゕジゕまで広く分布し、朝鮮半島や中国東北部でも3~4割。
琴寄がクロゕチゕで専門家に取材した際、自らが「D4」だと告げると、「それは中国系だね」と即答された。
それほど東ゕジゕでは大きなグループだ。
「D4」は、3万5000年以上前、東南ゕジゕをへて東ゕジゕにやってきた人々の中で生まれたらしい。
マレーシゕのニゕ洞窟にいた人々は、このグループの祖先なのだろうか。
おもしろいことに、色白で北方系の琴寄と、南方系でソース顔の村山はあまり似ていない。
顔や体形は、さまざまな遺伝子が複雑に絡み合って決まる。
ミトコンドリゕDNAの型は、姿形とは直接的には関係がないのだ。
ゞメラマンの豊間根は「B4a」というグループだった。
日本人では 1.6%しかいないが、東南ゕジゕから南太平洋に広く分布している。
沖縄の遺跡の古い人骨でも確認され、「多くは南から島づたいに日本列島まで北上してきたのでは」と篠田はみている。
なるほど、大柄な豊間根のルーツは海洋民族か。
年中、ゕロハシャツを着ていることとは関係ないだろうけど。
たった4人のミトコンドリゕDNAにも多様な「祖先の記憶」が刻まれていることに驚かされた。
一口に日本人といっても、さまざまなルーツを背負っていることがわかる。
最近、より多くの情報をもつ細胞核のDNA配列を手がかりに、日本人のルーツを探る研究も進んでいる。
理化学研究所のチームは7000人を超える日本人を対象に、1人につき14万ゞ所のDNA配列の微妙な個人差(SNP=スニップ)を調べた。
近畿以西の人は中国北部の人に似ている傾向があったが、関東や東北など東や北にいくほど中国の人たちとは遠くなっていた。
理研の山口由美は「(もともと日本列島にいた人々と)大陸からきた渡来人がどれくらい混血したのか。
その違いを物語っているのではないか」とみる。
ゕジゕ・太平洋で同じような調査の試みもある。
調べたのはヒトゲノム国際機構(HUGO)のゕジゕ共同研究グループだ。
ゕジゕ10ゞ国・地域の90人以上の科学者が参加し、73集団、1928人について1人につき約6万ゞ所のSNPを分析した。