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综合日语教程第六册 第七课 文章について

ぶんしょうを書かくことは苦くるしい。

しかしまた楽たのしい。

書かきたいテーマは脳のう中ちゅうにあって早はやく文字もじ化かされることを待まっている。

頭あたまの動はたらきの調子ちょうしのよいときには、目白押めじろおし[1] で待まっているといってもそれほど言いい過いすぎではない状態じょうたいになる。

しかし、ひるがえって[2] 思おもうに、文章ぶんしょうをかくことは恐おそろしい。

書かくなどということは、恐おそれるべく、慎つつしむ[3] べきことである。

人ひとは、自分じぶんの持もっているものを文章ぶんしょう化かする。

それによって他人たにんを益えきする[4] こともあれば、世よに刺激しげきを与あたえ、問題もんだいを投とうずる[5] こともできよう。

けれども、ひとが「持もっている」物ぶつは高たかが知しれている[6] 。

「持もっていない」もののほうがはるかに多おおいのだ。

知識ちしき、思想しそう、表現ひょうげん力りょく、人格じんかく的てき感化かんか力りょく――どれをとってみても、各人かくじんの持もっているものは知しれている。

他人たにんを益えきするだの、問題もんだいを投とうずるだのと、楽天的らくてんてき[7] に構かまえてばかりはいられない。

書かくことは、おのれの足たらざる[8] ところを人ひとに示しめす行為こういである。

隠かくすより現あらわれる。

内うちにあふれるものが行間ぎょうかん[9] に読よみ取とれることもある代かわりに、内うちに何なにが欠かけているかが見みえすいて、読者どくしゃの気持きもちを寒々さむざむ[10] とさせることもある。

人ひとは、あまりにしばしば、書かいて自己じこの貧困ひんこん[11] を世よにさらす。

足たらざるを露呈ろてい[12] するだけではない。

思おもいの内容ないようを過不足かふそく[13] なく言葉ことばに表あらわすこと、これがまた容易よういではない。

事実じじつ関係かんけいの再さい構成こうせい[14] に手間てまどる[15] 、どこかにすき間ま[16] が残のこる。

それを文字もじ化かする、またすき間まがある。

言葉ことば足たらざるもどかしさは、いつまでも尾おを引ひいて[17] こころが平たいらか[18] でない。

けれども、また思おもうに、これは、表現ひょうげんすること、更さらに人ひとが生いきることの背負せおっている宿命しゅくめい[19] というものかもしれない。

――人間にんげんは、自分じぶんの考かんがえを他者たしゃに伝つたえたくて、言語げんごという記号きごう(シンボル)を創つくりだした。

言語げんごは記号きごうであって、考かんがえそのものではない。

選えらび出だされた言葉ことばの列れつが、考かんがえを映うつしているに過すぎない。

ちょうど、実際じっさいの風景ふうけいと、カメラで写うつした風景ふうけいとに違ちがいがあるように、実際じっさいの考かんがえと、言語げんごによるその表現ひょうげんとの間あいだには、常つねに微妙びみょうなずれ[20] がある。

けんじゃ[1] は黙もだして[2] 語かたらない。

書かくことも話はなすこともせず、ひたすら沈黙ちんもく[3] を守まもって世間せけんの尊敬そんけいを受うけている。

壁かべに向むかって九きゅう年間ねんかんも沈黙ちんもくを続つづけた達磨だるま[4] 大師だいし[5] の面壁めんぺき[6] 九きゅう年ねんは、さしずめ[7] 、その好例こうれいといっていい。

黙だまっていれば、恥はずをかかずにすむ。

そうは思おもっても、そういう考かんがえをここにこうして書かいて、新あたらしい恥はじの種たねをまくのが、人間にんげんの、特とくに凡夫ぼんぷ[8] の業ごう[9] というものなのだ。

人間にんげんの業ごうは、言葉ことばを持もって自分じぶんを表現ひょうげんしないではいられないというところにある。

それが社会しゃかいの生物せいぶつとしての人間にんげんの本能ほんのうなのだ。

とするならば、ためらい[10] や恐おそれはほどほど[11] に抑おさえざるを得えない。

そして、甘あまえは捨すてなければならない。

自分じぶんを表現ひょうげんし、相手あいてに理解りかいしてもらうために、努力どりょくし続つづけようではないか。

たしかに、言葉ことばには記号きごうというものの持もつ不自由ふじゆうさがある。

けれども、自分じぶんの気持きもちを正ただしく相手あいてに伝つたえるためには、言葉ことばという手段しゅだんしかないという事実じじつを、もう一度いちど認識にんしき[12] し直なおさなければならない。

これが文章ぶんしょうを書かくという行為こういの出発しゅっぱつ点てん[13] だと私わたしは考かんがえている。

その上うえに立たって文章ぶんしょうを実際じっさいに書かいていくとき、私わたしが心掛こころがけて[14] いることが二ふたつある。

まず第だい一いちに、自分じぶんの持もっている考かんがえを、少すこしでも的確てきかくに表現ひょうげんしようということだ。

そのためには、まず自分じぶん自身じしんの考かんがえをつきつめて[15] いくことが大切たいせつだ。

自分じぶんでさえ「うまく言いえないんだけれど」ということを、他人たにんがどうして理解りかいしてくれるものか。

自分じぶんの考かんがえたことを言葉ことばという記号きごうに移うつしかえたとき、まとまっていなかった思考しこうがはじめてはっきりとした形かたちをとる。

言語げんごは記号きごうだから、思考しこうそのものとの間あいだにはずれがあるかもしれない。

だからこそより的確てきかくに言葉ことばを選えらばなくてはならない。

少すこしでも自分じぶんの心こころにぴったりくる言葉ことばを選えらぼうとするのは、ものを書かく者ものの責任せきにんだ。

そのための格闘かくとう[16] こそ、表現ひょうげん作業さぎょう[17] の中心ちゅうしんである。

心こころと言葉ことばとの距離きょりを、こうして無限むげんに小ちいさくしていくよう心掛こころがけたい。

だい二にに、他者たしゃに伝つたえるために表現ひょうげんしているという意識いしきを忘わすれないことだ。

とかく、自己じこを表現ひょうげんすることに熱中ねっちゅうしてしまうと、相手あいての存在そんざいを忘わすれがちになる。

けれども、表現ひょうげんというものは、それが相手あいてに伝つたわってはじめて完結かんけつ[1] するものだ。

「どんな人ひとたちに」「何なにを」伝つたえたいのかということを意識いしきすることは、ものを書かく場合ばあい、不可欠ふかけつの条件じょうけんだ。

これは、日常にちじょう生活せいかつの中なかで「相手あいてを意識いしきした」話はなし方かたをしていないと、うまくできるものではない。

ところが、若わかい人ひとたちは書かくことと同様どうよう、こういう話はなし方かたが苦手にがてなようだ。

それが難解なんかい[2] で独ひとりよがり[3] な表現ひょうげんとつながり、飛躍ひやく[4] ばかりでとりとめ[5] もない表現ひょうげんとつながる。

これでは、当人とうにん[6] は自分じぶんを表現ひょうげんしているつもりでも、独ひとり言ごと[7] を言いっているのと変かわりはない。

「言語げんご不信ふしん」などと言いう人ひとに限かぎって、ありきたり[8] の没ぼつ個性こせい[9] 的てきな表現ひょうげんに寄よりかかって、こと足たれり[10] とする傾向けいこうがある。

それでいて[11] 、他人たにんに理解りかいされないとこぼして[12] いるのは、甘あまえというものだ。

「弘法こうぼう[13] 筆ふでを選えらばず[14] 」というが、実際じっさいには、弘法大師こうぼうだいしは書体しょたい[15] によって筆ふでを選えらんだという。

表現ひょうげんも同おなじことで、相手あいてによって選えらぶ言葉ことばも違ちがってくる。

そのためには、ふだんから様様さまざまな文章ぶんしょうを読よみ味あじわって、言葉ことばに関かんする感覚かんかくを養やしなっておかなくてはならない。

さて、これまで述のべてきた心掛こころがけに基もとづいて、いよいよペン[1] をとるとなると、具体ぐたい的てきには、どんな点てんに注意ちゅういして文章ぶんしょうを書かいていったらいいだろう。

「文章ぶんしょうはレイアウト[2] である」――これが、私わたしの文章ぶんしょう観かんだ。

文章ぶんしょうをレイアウトする目的もくてきは、テーマ(主題しゅだい)をはっきりと浮うかび上あがらせる[3] ことにある。

そして、言げんいたいことどもの比重ひじゅう[4] や相互そうごの関係かんけいを視覚化しかくかすることにある。

この文章ぶんしょうによって、何なにを人ひとに伝つたえたいのか、どんなことを訴うったえたいのかということから、目めをそらせて[5] はいけない。

テーマが分裂ぶんれつ[6] していったり、テーマ以外いがいの要素ようそが入はいってきたりすると、レイアウトをすっきり[7] と仕上しあげる[8] ことができない。

レイアウトには、スペース[9] の感覚かんかくが大切たいせつだ。

文章ぶんしょうのレイアウトの場合ばあい、このスペースのは原稿げんこう用紙ようしの枚数まいすうにあたる。

それが五ご枚まいであるか、十じゅう枚まいであるか、スペースの大おおきさによって、レイアウトの方向ほうこうも定さだまる[10] 。

例たとえ、枚数まいすうが自由じゆうである場合ばあいでも、自分じぶんで内容ないように応おうじたすペースを設定せっていしておく必要ひつようがある。

無限むげん大だいの紙かみにレイアウトはできないのだから。

スペース(枚数まいすう)がはっきりしたら、それを視覚しかく的てきに捕とらえることを勧すすめたい。

一いち枚まいの紙かみの大おおきさを、これからレイアウトすべきスペースと考かんがえる。

そして、その紙かみを縦たての線せんで区切くぎって[11] いこう。

こうして、スペースの割わり振ふり[12] を考かんがえていくのだ。

読よみ手ての注意ちゅういを促うながし、興味きょうみを呼よび覚さます[13] 提示ていじ[14] の部分ぶぶん、それを受うけて、テーマを浮うき彫ぼり[15] にしていく展開てんかい[16] の部分ぶぶん、そしてそれらの全すべてが一いって点てんに凝縮ぎょうしゅく[17] する結論けつろんの部分ぶぶん。

そういう話はなしの組くみ立たて[18] を、こうやると、自分じぶんの目めで確たしかめることができる。

今いま思おもい返かえしてみると、中学生ちゅうがくせいのころから、一いち枚まいのざら紙がみ[19] に答案とうあんを書かく時とき、無意識むいしきのうちにこういうレイアウトを実行じっこうしていたようだ。

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