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日语综合教程第五册 红山桜

紅山桜――辰野和男昔、弾誓上人という遊行聖が桜の木を切って自分の姿を刻みはじめたところ、たちまちその木から熱血が流れでたという。

上人は直ちに刻むのをやめて、袈裟で覆い、箱に入れた、という伝説がある。

桜のなかでもとりわけ、紅山桜をみていると、熱血が流れでというこの伝説がなまなましく、身近な物に思えてくる。

北の桜を尋ねる今回の旅は、新潟に住む写真家、高波重春さんと一緒にだった。

私は行く先々の旅館でぬくぬくと畳の上に寝たが、高波さんは川辺や公園内で寝る習慣を変えなかった。

毎年、春になると、桜前線を追って全国を走り回る。

ほぼ二十年、そうやって桜を取り続けている人だ。

高波さんとの旅はたのしかった。

撮影の合間に「いっくら撮ってもろくなもんできねえけど」「こんげな景色見てんと、写真というちんけえ四角の枠にあさめんのがばからしくなっちゃう。

ただもう、ひざまずくしかないなあ」と自嘲のお国ことはが飛び出す時間は、結構調子に乗っている様子だった。

ひざまずくどころか、そんな時の高波さんは三脚をかついで右に左にかけ回った。

東北や北海道の桜をて、そのしぶとさに驚かされることが多かった。

福島県社三春町にある紅枝垂の巨木、滝桜はわずかに盛りをすぎていたが、私は花の滝に打たれながら、その幹や枝の怪物しめたたくましさに見とれた。

私よりも先に着いて撮影を続けていた高波さんは「三日前が最高でした。

最高のとき見てもらいたかったなあ」と残念がった。

「最高の状態の桜の花が撮れるのは一年の内の一日、一日の内の一時ですね」とも言った。

私としては、花はいつ見ても花だと思いたい。

つぼみの桜もいいし、泥にまみれた花びらもいい。

だが写真を撮るとなると、「一年、いっとき説」も成り立つのだろう。

夜の内に十分に水分を吸った花が早朝の柔らかな光に包まれて照りはえる。

その一瞬がすばらしという。

逆に乾いた風にさらされ続けると、花の表情はおおざっぱなものになってしまう、のだそうだ。

「ですからおらの取材は祈りの繰り返しです。

」と写真家はいった。

私たちは福島から青森へと桜を求めてさまよい、南に下って秋田の湯瀬に着いた。

湯瀬の山や沢ぞいに咲く紅山桜を見て、二、三日腰をすえることをきめた。

高波さんは翌朝の撮影地点をさぐるのに半日を費やした。

立ち止って、長い間、桜を見詰め、桜を見詰め、「桜と対話するなんていうのは、こちらの思い過しだろうな」とつぶやいた。

「桜のほうは、好きで咲いているわけですし、しょせんは片思いなのでしょうが、早朝ひとりで山の中の桜と相対していると、ああ今おらはこの桜と二人きりで時間と空間をと共にしているという思いがあって、相思いながらも怖くなることがあるんです。

桜には美しさを超えた恐ろしさがあり、恐ろしいと思いながらもひきこまれます。

その瞬間を映像にしたいと思いますね」もうすぐ五月だというのに、夜ふけて雪になった。

翌朝六時、目覚めると雪はまだ降り続き、桜は白い紗のむこうにあった。

川辺に停車中のワゴンを探し当てた。

肩を落としているだろうと思った愛棒は「雪国はいつもこうです。

はやる心を抑えている様子だった。

私は雪の降りしきる湯瀬の山へひとりで入った。

わが相棒の「片思い」に同情したこともあったし、私自身もまた、ひとりで桜にむかいたいという気分になっていた。

雪はみぞれになり、みぞれがまた雪になった。

雪に打たれながらも、花はほとんど散らない。

これしきのことで、散かってたまるかという調子でしがめついている。

雪がやんだ。

雲が割れて、日がさす。

切り裂くような透明な空気の中で、ぶなの新芽が光る。

キブシの黄の花が輝く。

谷川のそばに一本のはぐれ桜があった。

やあと呼びかければ、やあと答えてくれそうな、ほどほどの大きさの紅山桜だった。

ぐれからきっぱりとはなれているところがいい。

幹がぬれぬれと黒い。

光を浴びて、桜の花の一つ一つ、花びらの一枚一枚がにおいたち、なんというか、すっきりとした情念を放っている。

「しず心なく」花の散かる様を、古人は歌った。

だが、今、この紅山桜はまさに「しず心」で咲き続けている。

降り続いた雪や雨に動ずることもなく、散り急ぐこともない。

はぐれ桜が発している情念とは、しず心そのものではないか。

長い間向き合っているうちに、そのしず心がこちら側に忍び込み、心の奥底に潜むしこりのような物を溶かし去ってくれるような、そんな感じを味わった。

午後遅く、私は高波さんと落ち合った。

ラーメンを食べながら、いい写真が取れただろうかとたずねた。

「いいのが撮れたと思ってても、現像があがってくるとむなしくなります」と相棒は自嘲の姿勢である。

調子はまずまずだったらしい。

フゔインダーをのぞいている時の感動が写真にするとでてこない、それがもどかしい、ともいった。

これは本音だろう。

もどかしいから「来年こそは」と自分を追い立てる。

「来年こそは」が撮影を繰り返す力の源になる。

桜を撮り始めた時、はたちだった青年が今は四十歳を超えている。

冬は、新潟にで除雪車を走らせる仕事をして撮影の資金をかせぐ。

百姓の仕事もする。

何種類もの桜を種から育てている。

「東京という町はなんといってて無機質な感じとる暮らしを続けること、おらにはそれしか生きる道がないんじゃないか。

そいいきかせています」秋田で別れる時に、尋ねた。

「桜への片思いはまだ続きますか。

」「死ぬまで撮り続けます。

桜は私に生命力を与えれくれいるわけですし、生涯、桜にすがって生きてゆくでしょうね」。

そういってから、照れ屋の写真家はつけ加えた。

「といってもどこまでゆけるかわかんねえけど」高波さんは新潟に戻り、私はいちど帰京し、五月中旬、北海道の襟裳岬をめざした。

今度は桜の散かるさまを見たかった。

相棒なしの旅だ。

えりも町の庶野で、海辺の小さな旅館に泊まった、海鳴りと雨の音を耳にしながら寝た。

翌日も雨だった。

雨が小降りになると、岬を吹き渡る風が激しくなった。

「いつもこうなんですよ、ここは。

雨がやむと風、風かと思うと雨で」と旅館の女将さんが言った。

翌日も雨だった。

こうなってはしず心で待っているわけにはいかない。

雨と雪の中に散る桜を見物に行くというと、女将さんは酔狂な客の顔をしげしげと見て、今なあ、うどんをゆでたところだから、せめて体を温めてからゆきなさい、といってくれた。

ありがたく、いただいた。

ひとり歩きは危ない。

クマがでるといけないから、といって呼び子を貸してくれた。

町が自慢する桜公園を抜けて、林道を奥に入る。

さすがに人はない。

雨の中で、大花延齢草の白さがきわだってみえる。

横殴りの風が吹き、蝦夷大桜草もあり、散らない桜もあった。

桜の散る様を見に来たつもりではあったが、ここで見た北の桜はやはり、風雪に耐えて咲き続ける姿に風情があった。

手がかじかみ、ぬらそばって歩いているうちに、いきなり眺望が開けた。

遠景に雪の山々があり、手前の山々には辛夷が咲き、落ち葉松があわあわとした緑をみせている。

赤茶色のひろがりは、楓やぶなの新芽だろう。

その赤茶色の炎の中に紅山桜が点在している。

私は立ちつくした。

立ちつくしているうちに露草色の空が見えてきた。

風の中のしぶきが銀色に光っている。

近づいて桜をあおぐ。

花びらに、ツメでひっかいたような後がある。

紅色がはげている部分がある。

風や雨との闘いのあとだ。

その傷跡に、私は桜の生命力を見た。

桜は時には不気味な暗さを見せ、移ろいはかなさを見せ、死の相を見せる。

そして時には生の歓喜の表情を見せ、しぶとさを見せ、豊かな実りの予兆となる。

私たちが桜たずねずにはいられない秘密の一つは、この桜の両面性にあるのではないか。

後日、箱根へ行き、阿弥陀寺所蔵の「弾誓上人絵詞伝」をみせていただいた。

確かに、眼光釣る土井上人が刻む桜の木からは赤い血が流れていた。

桜木の熱血伝説を信じた古人は、桜に霊性を見、その霊性の中にぶきみさと、あふれる生命力を見たに違いない、と私は勝手に解釈している。

(『世界花の旅1』朝日新聞社より)红山樱——辰浓和男有这么一个传说:从前,有一位名叫弹誓上人的云游高僧砍了一棵樱树,并着手在上面刻自己的形象,正在这时,突然从树上流出了热血。

上人马上停止了雕刻,将袈裟盖在上面,放入箱子。

看见了樱花,尤其是看见了深红色的红山樱后,就觉得从樱树上流出热血的传说,是活生生的发生在眼前的事情。

这次去探寻北方樱花之旅,是和住在新泻的摄影家高波重春一起去的。

所到之处,我在旅店里热乎乎的榻榻米上过夜,而高波先生却睡在他所喜爱的停在河边或公园旁的乘用车里。

不管怎么劝,他也不改在车内睡觉的习惯。

每年一到春天,他追随着樱花前线在全国到处跑,大概有二十年了,他就这样坚持拍摄樱花。

与高波先生一起旅行非常愉快。

在摄影的空档儿,他用方言自嘲自己,真是妙语连珠。

什么“不管怎么拍,也拍不出像样的。

”什么“每当看到这样的景色,觉得把它收到这样四角方正的照片里真是太傻了。

寻常人只好下跪了。

”当他说这话时,显得非常起劲的样子。

其实岂止下跪,在那样的时候,高波先生还得扛着三脚架左右来回跑动。

看了东北地方和北海道的樱花,我在许多时候为它们的坚韧顽强所震惊。

福岛县的三春镇,那里有巨大的红垂枝樱树和树龄达几百年的泷樱树,虽然离开樱花盛开的日子稍稍晚了一点,但是当樱花的瀑布拍打着我的身体,它们那怪物般的强壮的树干和树枝,让我看得简直入迷了。

比我先到并且一直在拍照的高波先生惋惜地说:“三天前的景色最好,多么想让你在最美好的时候看到它们呀!”他还说:“要拍到樱花最好状态,一年之中只有一天,而在那一天之中只有一瞬间。

”而作为我来说,无论什么时候看到的花都是花,初绽花蕾的樱花也好,沾满泥土的花瓣也好,但是如果要给它们拍照的话,“一年中的一瞬间之说”也许能成立吧。

夜间吸收了充分水分的花,被清晨柔和的阳光笼罩和映照着,那一瞬间据说真是美妙无比。

相反,听说如果被干燥的风持续吹过,花的表面会变得很粗燥。

正如摄像师所说的:“所以嘛,我的取景就是反复的祈祷。

”我们从福岛到青森,为探寻樱花而徘徊彷徨,南下一直来到汤濑。

沿着汤濑的山谷观赏到了满开的樱花,决定在这里静下心来住几天。

高波先生花了半天时间寻找第二天清晨的拍摄地点,他站在那里,长时间地凝视着樱花,自言自语地说:“与樱花对话之类的事情,也许是我考虑过度了吧。

”“作为樱花一方,因为它自己喜欢才开花。

归根结底我是单相思吧。

清晨一个人与山中的樱花相对,我不由自主地想到:此时此刻只有我和樱花两者共享时间和空间。

这么一想,我不禁有一种恐惧感。

樱花有一种超越美的恐惧,虽然感到恐惧,但还是那么吸引人。

我就是想要把这一瞬间用映像记录下来。

”尽管马上要到五月份了,半夜三更却下起雪来。

第二天清晨六点,醒来时雪还一直在下着,樱花被白纱似的世界衬托着。

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